郡山地方にはこれといって目立った産業は興らなかったが、庶民の努力で営み続けられた産業が幾つか存在した。
その一つに、日和田の鋳物(いもの)がある。日和田の鋳物の歴史は古く、「…文明十九年…日谷田根岸大工 秀次」の銘がある鉄鉢(かなばち)が船引の大鏑矢(おおかぶらや)神社にある。国の重要美術品に指定されているものである。「…安積郡部谷田住仁大工高久殿…福徳三年…」の銘のある鰐口(わにぐち)が宮城県船岡町妙立寺(みょうりゅうじ)にある。福徳(ふくとく)三年は延徳(えんとく)3(1491)年の私年号で、この年は大鏑矢神社の鉄鉢の4年後である。
江戸時代に入っても銅鐘(どうしょう)や鰐口の製作は続けられていたようで、製作者の銘の入った銅鐘や鰐口が確認できる。銅鐘、鰐口、擬宝珠(ぎぼし)の他、日常生活用品の鍋や釜、鉄瓶(てつびん)、火鉢(ひばち)、風呂釜、鉄砲等の製作をした。村々の鍛冶職人が鍬(くわ)や鎌(かま)、鉈(なた)等を打つための鋼(はがね)の供給も行った。その販路は中通りを中心に、北は福島、飯坂方面から南は須賀川、長沼に至る各町や村に及んだ。
鋳物の原料は砂鉄であったが、阿武隈川と藤田川の合流地付近では砂鉄が採れた。また、町内の八幡神社や田村郡各地から鉄鉱石が採掘されていた。近世には南部鉄が阿武隈川を船で運ばれたり、馬で運ばれたりしていた。鋳物に使用する木炭は、現熱海町の奥羽山脈の東麓の村々から買い入れて使用していた。
幕末に至ると藩命により、大砲、小砲、砲弾などの兵器も製造したようである。