摺臼(するす)は籾(もみ)を玄米にする道具であるが、土摺臼(どするす)は江戸時代中期まで関東や磐城、仙台が主生産地であった。当地方が生産地から遠かったため高価であり、木摺臼の使用が多かった。文政(1818~1829)年間になると土摺臼が小原田村で製造されるようになり、地元で生産されることもあって、割安となり普及するようになった。土摺臼とは竹と板と土でできた摺臼である。
文政年間に岩城出身の鈴木半之丞が小原田村に移り住み、製造を始めたが、程なく弟子も集まり生産も盛んになった。小原田土摺臼は性能がよく、砕け米が出なかったという。そのために需要が多く、生産が追いつかなかったようである。初めは農閑期に農家に出張して製造していたが、やがて表通りに店を構える家も出現した。販路は安積、安達、田村、岩瀬から会津まで広がっていった。