1 町昇格への動き

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 1823(文政6)年に「郡山宿引立(ひきたてかか)り」として郡代伊東九兵衛と郡奉行の小野十右衛門の両名が任命され、郡山繁栄のために種々の施策を講じてくる。これに対し、「村から町への昇格」の方が郡山の繁栄には得策であると、村役人たちを中心に町昇格の要望が出されてくるのである。

 当時二本松藩では1813(文化10)年8月藩主丹羽長祥(にわながあきら)が34歳で死去し、九代長富(ながとみ)は10歳で家督を襲封する。この幼年の藩主を補佐し藩政の実権を握るのは家老丹羽久馬介貴明(たかあき)で、1820(文政3)年家老職上座に就き、用人や郡代等の要職も彼の意に叶う者を登用し「権勢盛(けんせいさか)んにして、藩中誠に風になびくが如(ごと)くなり」(今泉家文書)と称された。

 村から町への昇格には幕府の許可(承認)が必要で、郡山村役人達は筆頭家老丹羽貴明を頼んで、藩主の承認のもとで公儀(幕府)への働きかけを願い出ようとする。このため今泉・小針の郡山村の両名主は丹羽貴明と面識のある商人永戸与次衛門を通じて貴明への働きかけを行うようになり、1823(文政6)年12月丹羽貴明が江戸より下向の際永戸方へ止宿した時、このことを貴明に嘆願している。その後用人を通じて、公儀への働きかけの費用負担についての諮問もあり、村役人と一部商人の間で内密に進めていた町昇格のことは、郡山村として検討し衆議一致のものとして進めるようになる。同じころ本宮でも町昇格要望が出され、郡山と本宮両方で町昇格をめざすようになるのである。

 翌1824(文政7)年3月11日付で、郡山村の村役人達は町昇格の「内意伺書」を郡山村の総意として代官所(藩)に差出した。これには「須賀川は商人も郡山より少ないが、町名を唱え上下に木戸門がある。村名では売買先に嘲笑される場合もあり、品物によって損を生じ一段低く扱われている。願わくば郡山の村名を除き町と町人を称し、両町端に木戸門を建立することを恐れを顧みずお願いします」とある。これは、須賀川を例に、村名のままでは営業活動に差し支え、「町名」と「町人」呼称は不可欠なこと、さらに、郡山の両端に木戸門を建設することは町のシンボルとして必要と嘆願しているのである。