1824年(文政7)閏8月20日二本松城下に郡山・本宮両村の村役人・長(おさ)百姓等が招集され「両所共に村名を止め、宿町の唱えを致すべきこと」(今泉文書)と、町昇格が布達されている。この後、郡山村は郡山町と改称され、村役人の役職名も名主は検断(けんだん)、組頭は町目付(まちめつけ)、
長百姓は長町人(おさちょうにん)、村民は町人(ちょうにん)と称し、郡山の上町下町統合の町役人として町年寄役(まちとしよりやく)という役職が新たに設置された。
また、郡山では町昇格への象徴として、南と北の出入り口に枡形(ますがた)を構築し、そこに木戸門(きどもん)を建てることが許可され、町人達の出資により1826(文政9)年に総経費815両余をかけ完成する。木戸門は町の内外を区別する門で、枡形は「御影石で高さ6尺(1.8m)程に積立てられ、その上に男松を植え並べ、枡形は縦七・八間(12.6~14.4m)、横五間(9m)程の規模であった」という(「明治見聞実記」)。この時設置された枡形は、上町が現本町一丁目玉屋商事駐車場付近(従来野田文具店付近とするのは誤りで、ここは1826(文政9)年以前の枡形と想定される)、下町は現大町一丁目不二屋パン店辺り(旧会津街道分岐点付近は誤り)と想定されている。この枡形の範囲が郡山宿(町)の範囲であった
※枡形について
枡形は、郡山宿の範囲を示し、街発展の様子を知ることのできる貴重なものでもある。
上町側では、初期は山野井水産の付近(Ⅰ期)にあった。天和年間(1681~83年)に縄引き(土地整理事業)があり、この時南へ旧野田文具店跡付近へ(Ⅱ期)移る。その後町昇格と共に南へ移り玉屋商事駐車場付近(Ⅲ期)に設置され、明治期まで存続する。下町側では、初期が旧トポス北西角交差点付近(Ⅰ期)で、天和年間に旧不二屋パン店辺り(Ⅱ・Ⅲ期)に移る。その後街昇格後に同場所を改築(規模を大きく)して明治期まで存続する。
なお、枡形は1877(明治10)年には取り崩され、荒池の堤石として積み並べられ、その後麓山の滝の石組みに利用されるのである。