二本松藩の年貢米は郷蔵に収納された。二本松藩の郷蔵は郡山・本宮・二本松城下の3ヵ所に置かれ、このうち郡山の郷蔵には郡山・大槻・片平の安積(あさか)三組の年貢米を収納した。場所は現在の金透小学校敷地である(蔵場(くらば)の地名は郷蔵に由来する)。ここには村別の収納蔵や稗蔵(ひえくら)・籾倉(もみぐら)等があり、米俵を検査する「斗屋(はかりや)」も併設されていた。この郷蔵から藩の指示で廻米として江戸へ運ばれるのであるが、廻送される米には「為登米(のぼせまい)」、「御膳米(ごぜんまい)」、「御用米(ごようまい)」等の区別があった。為登米は換金のための米で、御膳米は藩主及び家族の飯米など、御用米は江戸詰家臣用扶持米などである。「今泉家文書」に「為登米」として郡山組の米120石(300俵)を蔵出し、本宮へ運ぶように、との代官からの布令が出されている。(文政元年8月「御用留帳」)。郡山の郷蔵からは本宮(本宮組と糠沢組の郷蔵があった)と同様に、「為登米」として多く江戸へ廻米されたとされる。二本松藩の1750(寛延3)年から52(宝暦2)年まで3年間の江戸廻米量では、年間1万5,000俵前後を江戸へ送り、その70%前後が家臣への扶持米に充てられ、残る30%前後が売却されているのである。