守山藩の廻米について、1777(安永6)年守山陣屋から江戸藩庁へ報告によると、年貢米の総収量は9,582俵余、このうち守山陣屋の必要経費として郷足軽給分(あしがるきゅうぶん)、守山詰役人扶持分(もりやまづめやくにんふちぶん)など1,248俵を除き、残り8,335俵余が江戸廻米に充てられている。
廻米は米俵を馬に背負わせ(1駄につき2俵)搬送した。これを「津出(つだ)し」と言い、守山藩では津出しを一番立・二番立と称し1777(安永6)年では九番立まで送り出している。守山藩の江戸廻米の集積地は矢吹宿で、陣屋からの指示で各村の郷蔵から指定の俵数を指定の日までに矢吹宿へ運び込むが、矢吹津出しまでが村負担であった。また、津出しを差配する者(荷駄輸送責任者)を才料(さいりょう)(宰領)といい、才料は郷足軽(ごうあしがる)役の者や領内から選抜された者が勤めている。
なお、廻米は宿場間を荷継ぎされるもので、宿駅には廻米を扱う米問屋がいた。これを中次問屋(なかつぎとんや)といい廻米荷の保管、駄賃馬や舟運の手配、さらには廻米の一部を地払いするなど、廻米を通じ藩と強い繋がりを持ち、須賀川の市原家・太田家や白河の大森家のように守山藩の御用商人となるものもいた。
また、江戸には守山米を扱う米穀商人(蔵元(くらもと))がおり、蔵元には星野義次郎・山下助右衛門・近江屋喜平次・小池幸左衛門の名前が知られ、藩は蔵元から年貢米を抵当に前借りや入質して借金するなど、藩と蔵元とは財政的に深い関係を保ってくる。
藩財政が逼迫した1786(天明6)年、守山藩は近江屋から収納米を担保に700両を借金し、翌々8年になっても返済出来ず、その利子175両を、領民に100石につき3両ずつかけることによって調達し、近江屋の公訴(幕府への訴訟)を免れたということもあった。
廻米路は大きく分けて三つあった。鬼怒川(きぬがわ)廻しと那珂川(なかがわ)廻しと海上(かいじょう)廻しである。鬼怒川廻しは本道廻しともいい、初期からの廻米路(かいまいろ)で、矢吹・白河から奥州街道を氏家に出て鬼怒川筋の阿久津河岸(あくつかし)に至り、ここから舟運(小鵜飼舟(こうかいふね))で久保田河岸(くぼたかし)へ、ここで積載量の大きな船(高瀬舟(たかせぶね))に積み替え利根川(とねがわ)と合流点に至る。利根川を遡り関宿(せきやど)辺りで利根川とはずれ、江戸川に入り南下し市川(いちかわ)・行徳(ぎょうとく)を経由しながら中川まで出る。中川を横切り隅田川(すみだがわ)に乗り入れ終点の浅草蔵前(あさくさくらまえ)に到着する。守山藩蔵屋敷は南本所石原町にありここに収納された(守山米の出納を管理する役所を石原会所(いしはらかいしょ)という)。
那珂川廻しは、奥州街道を寺子(てらこ)より黒羽(くろばね)を経て那珂川筋の佐良土河岸(さらどかし)に出る。ここから那珂川を舟運で水戸を経て、那珂川河口近くで涸沼川(ひぬまがわ)に経路を取り、涸沼湖上に出る。湖岸に守山藩松川陣屋がある。湖上を渡り海老沢(えびさわ)に着き、馬背で下吉影(しもよしえい)(小美玉市)まで運ばれ、下吉影から再び舟運で巴川(ともえがわ)を下り串換(くしひき)(鉾田市)で北浦(きたうら)に達する。以後は舟運で北浦を西航して利根川に出る。利根川を遡(さかのぼ)り関宿付近までゆき、この後は鬼怒川廻しの経路と同様である。この廻路は主要道からはずれ、松川陣屋を通る路で中期以降からは多く利用された。
海上廻しは、1850(嘉永3)年の事例では岩城街道を谷田川・蓬田・上三坂・市ノ萱・合戸・平久保・高久から中ノ作港へ、ここより海運で那珂湊へ、そして涸沼川をのぼり松川陣屋へ荷揚げされ、さらにここからは那珂川廻しと同じ経路となり江戸蔵前に運送された。しかし、海上廻しは事例としては多くなかった。廻米には莫大な経費がかかり、舟運の場合岩礁に乗り上げての難破・破船のリスクも多かった。特に舟運中に浸水し濡れ米となった米を沢手米(さわてまい)といい、品質が落ち安価に買い叩かれた。