阿武隈川は、福島県のほぼ中央を北流し、多くの川が阿武隈川へ流れ込んでいるため、大雨の度に各地で水害が起きている。
1609(慶長14)年は6月21日より雨が降り出し、24・25日は風雨が烈しく26日に洪水となり、西白河郡・石川郡・岩瀬郡の村々に被害が出た。
1723(享保8)年8月8日は朝から大雨となり、9日の朝五つ時(午前8時)まで降り続いた。阿武隈川は氾濫し、上行合村・下行合村より日出山村・小原田村・郡山村の間が湖水のようになった。さらに、10日は朝より夜半まで大風雨のため、金屋村では3・4軒が吹き飛ばされ、上行合村の屋敷へ水が流れ込んだ。徳定村では40軒余に水が上がり、人家の食物・衣類・諸道具が悉(ことごと)く水に浸り、人馬はようやく舟で御代田村へ逃れ助かった。
翌年6月25日にも雷雨があった。夜中に大水が出て、守山藩の川沿いの村々は2年連続で被害を受けた。さらに、1728(享保13)年にも大水があり、1723年と同様に大被害となった。徳定村では打ち続く水害のため、1730(享保15)年に藩へ村の移動を願い出て、古屋敷から現在の蚕沢(かいこざわ)へ移ったのである。
1779(安永8)年8月25日も大雨が降り洪水になった。守山藩役人三村甚衛門(じんえもん)が、26日に南小泉村の被害の見分に出て、二本松藩領の様子を見ると、阿武隈川の土手が数ヵ所切られ、郡山村辺りまで水が押し寄せ、横塚村は水没していた。
1784(天明4)年には上行合村の下河原辺りより小原田村地内が流され、阿武隈川の流れを変えるほどの洪水となった。
1812(文化9)年7月も洪水となり、阿武隈川や逢瀬川が氾濫した。郡山村では諏訪耕地(すわこうち)・狐壇(きつねだん)耕地・弊道内(へいどうない)耕地の田畑に水が流れ込み、多くの作物に被害が出た。水門町や石淵の土手が数ヵ所切られ、大重橋(現 安積橋)が流された。耕地とは字を幾つか纏(まと)めた区画で、農業のため田畑として使用している土地のことである。諏訪耕地は現在の古川ポンプ場の西側辺り、狐壇耕地は現在の福島交通郡山支社辺り、弊道内耕地は現在の若葉町辺りである。
1858(安政5)年6月13日は夜から雨が降り出し、翌日も一日中降り続き洪水となった。守山藩領内では阿武隈川沿い村々の作物は全て流され、笹川村では20町歩余、小原田村では130町歩余、郡山町では23町歩余の穀物や野菜が流された。
1864(元治元)年8月8日も被害に見舞われた。村々の被害状況は第1表のとおりである。笹川村は土地が高いため被害は少なかったが、横塚村の田畑の作物と、笹原村の畑作物は全て流され皆無となった。被害は小原田村の田が1町9反歩余、郡山上町が5反余、日出山村が4反余、八丁目村6町9反余に対し、畑の被害は、郡山上町が10町余、郡山下町は17町余、小原田村22町余、日出山村5町余、久保田村14町余、福原村8町余、高倉村3町余、梅沢村2町余、八丁目村10町余と、阿武隈川沿い村々の畑に被害が出た。特に、阿武隈川は日出山村から久保田村あたりまで蛇行が著しく、小原田村の八作内(はっさくない)、水門町・石渕町、横塚村辺りの堤防が切れやすく、小原田村・郡山村・横塚村では度々被害に見舞われた。
村名 | 田 | 畑 | ||||
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合計 | 作物皆無 | 支障無 | 合計 | 作物皆無 | 支障無 | |
横塚村 | 全部 | 全部 | 全部 | 全部 | ||
笹原村 | 全部 | 全部 | ||||
郡山上町 | 5町6反2畝15歩 | 5反歩 | 5町1反2畝15歩 | 11町歩 | 10町5反歩 | 5反歩 |
郡山下町 | 6町8反歩 | 6町8反歩 | 17町6反6畝20歩 | 17町6反6畝20歩 | ||
小原田村 | 11町3反6畝20歩 | 1町9反8畝10歩 | 9町3反8畝10歩 | 32町9反8畝10歩 | 22町3反6畝20歩 | 10町6反1畝20歩 |
日出山村 | 16町6畝20歩 | 4反3畝10歩 | 15町6反3畝10歩 | 17町1反6畝20歩 | 5町6反歩 | 11町5反6畝20歩 |
笹川村 | 1町1反歩 | 1町1反歩 | 1町6反6畝20歩 | 1町6反6畝20歩 | ||
久保田村 | 18町1反6畝20歩 | 18町1反6畝20歩 | 25町2反歩 | 14町2反歩 | 11町歩 | |
福原村 | 17町4反3畝10歩 | 17町4反3畝10歩 | 25町3畝10歩 | 8町6反4畝歩 | 16町3反9畝10歩 | |
高倉村 | 2町7反歩 | 2町7反歩 | 9町9反3畝10歩 | 3町8反3畝10歩 | 6町1反歩 | |
梅沢村 | 2町8畝20歩 | 2町8畝20歩 | 5町2反9畝10歩 | 2町5反3畝10歩 | 2町7反6畝歩 | |
八丁目村 | 17町1反3畝10歩 | 6町9反3畝10歩 | 10町2反歩 | 13町4反9畝10歩 | 10町1反歩 | 3町3反9畝10歩 |
合計 | 98町4反7畝25歩 | 9町8反5畝歩 | 88町6反2畝25歩 | 159町4反3畝20歩 | 95町4反4畝歩 | 63町9反9畝20歩 |
(郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書支配494)
1781(天明元)年には小原田村の八作内と郡山村の石渕の普請工事が行われ、八作内には1万8,170人、石渕に2,738人の人足を費やしている。1791(寛政3)年にも八作内の普請が行われた。普請人足は第2表のとおりで、郡山組の村々を始め、杉田組・渋川組・小浜組・玉ノ井組・針道組・片平組・大槻組・本宮組・糠沢組の村々からも人足を出して普請にあたった。
組名 | 人数(人) |
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杉田組 | 871 |
渋川組 | 972 |
小浜組 | 1,704 |
玉ノ井組 | 1,081 |
針道組 | 1,545 |
郡山組 | 1,313 |
片平組 | 773 |
大槻組 | 893 |
本宮組 | 983 |
糠沢組 | 1,252 |
合計 | 11,387 |
(郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書水利18)
郡山町では、石渕金(いしぶちきん)と称し普請費用の積み立てを図った。郡山町は1824(文政7)年に藩の許可を得て村から町となっていた。郡山町の町民は、度重なる洪水に対し金銭を出して水害対策にあたったのである。石渕金を郡山町の町民に貸し付け、利息を元金に加えて石渕金の増額を計った。そのため、石渕金は1829(文政12)年には712両となった。石渕金は、郡山町の商人や農民をはじめ、近隣村々へ貸し付け、その利息を普請費用に宛てるというものであり、石渕金の永続化も計っているのである。1854(安政元)年の12月から翌年11月までに、第3表のように郡山町の町民22人へ563両余を貸し付けている。利率は一年に30両につき一分の利で、一年の利率は一割二分と高率である。石渕金を借用している者は、増子真木蔵・永戸市郎右衛門・今泉与一郎・安藤忠介・横田治右衛門・川口半右衛門・阿部茂左衞門・今泉久右衛門等の郡山町の富商・富農・町役人等である。
(参考文献・資料)
福島県庁文書F二三九二
郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書
守山藩御用留帳(郡山市歴史資料館所蔵)