42 阿武隈川の洪水と石渕金(いしぶちきん)

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 阿武隈川は、福島県のほぼ中央を北流し、多くの川が阿武隈川へ流れ込んでいるため、大雨の度に各地で水害が起きている。

 1609(慶長14)年は6月21日より雨が降り出し、24・25日は風雨が烈しく26日に洪水となり、西白河郡・石川郡・岩瀬郡の村々に被害が出た。

 1723(享保8)年8月8日は朝から大雨となり、9日の朝五つ時(午前8時)まで降り続いた。阿武隈川は氾濫し、上行合村・下行合村より日出山村・小原田村・郡山村の間が湖水のようになった。さらに、10日は朝より夜半まで大風雨のため、金屋村では3・4軒が吹き飛ばされ、上行合村の屋敷へ水が流れ込んだ。徳定村では40軒余に水が上がり、人家の食物・衣類・諸道具が悉(ことごと)く水に浸り、人馬はようやく舟で御代田村へ逃れ助かった。

 翌年6月25日にも雷雨があった。夜中に大水が出て、守山藩の川沿いの村々は2年連続で被害を受けた。さらに、1728(享保13)年にも大水があり、1723年と同様に大被害となった。徳定村では打ち続く水害のため、1730(享保15)年に藩へ村の移動を願い出て、古屋敷から現在の蚕沢(かいこざわ)へ移ったのである。

 1779(安永8)年8月25日も大雨が降り洪水になった。守山藩役人三村甚衛門(じんえもん)が、26日に南小泉村の被害の見分に出て、二本松藩領の様子を見ると、阿武隈川の土手が数ヵ所切られ、郡山村辺りまで水が押し寄せ、横塚村は水没していた。

 1784(天明4)年には上行合村の下河原辺りより小原田村地内が流され、阿武隈川の流れを変えるほどの洪水となった。

 1812(文化9)年7月も洪水となり、阿武隈川や逢瀬川が氾濫した。郡山村では諏訪耕地(すわこうち)・狐壇(きつねだん)耕地・弊道内(へいどうない)耕地の田畑に水が流れ込み、多くの作物に被害が出た。水門町や石淵の土手が数ヵ所切られ、大重橋(現 安積橋)が流された。耕地とは字を幾つか纏(まと)めた区画で、農業のため田畑として使用している土地のことである。諏訪耕地は現在の古川ポンプ場の西側辺り、狐壇耕地は現在の福島交通郡山支社辺り、弊道内耕地は現在の若葉町辺りである。

 1858(安政5)年6月13日は夜から雨が降り出し、翌日も一日中降り続き洪水となった。守山藩領内では阿武隈川沿い村々の作物は全て流され、笹川村では20町歩余、小原田村では130町歩余、郡山町では23町歩余の穀物や野菜が流された。

 1864(元治元)年8月8日も被害に見舞われた。村々の被害状況は第1表のとおりである。笹川村は土地が高いため被害は少なかったが、横塚村の田畑の作物と、笹原村の畑作物は全て流され皆無となった。被害は小原田村の田が1町9反歩余、郡山上町が5反余、日出山村が4反余、八丁目村6町9反余に対し、畑の被害は、郡山上町が10町余、郡山下町は17町余、小原田村22町余、日出山村5町余、久保田村14町余、福原村8町余、高倉村3町余、梅沢村2町余、八丁目村10町余と、阿武隈川沿い村々の畑に被害が出た。特に、阿武隈川は日出山村から久保田村あたりまで蛇行が著しく、小原田村の八作内(はっさくない)、水門町・石渕町、横塚村辺りの堤防が切れやすく、小原田村・郡山村・横塚村では度々被害に見舞われた。

第1表 1864年(元治元)年の阿武隈川洪水による郡山組村々の被害状況
村名
合計 作物皆無 支障無 合計 作物皆無 支障無
横塚村 全部 全部 全部 全部
笹原村 全部 全部
郡山上町 5町6反2畝15歩 5反歩 5町1反2畝15歩 11町歩 10町5反歩 5反歩
郡山下町 6町8反歩 6町8反歩 17町6反6畝20歩 17町6反6畝20歩
小原田村 11町3反6畝20歩 1町9反8畝10歩 9町3反8畝10歩 32町9反8畝10歩 22町3反6畝20歩 10町6反1畝20歩
日出山村 16町6畝20歩 4反3畝10歩 15町6反3畝10歩 17町1反6畝20歩 5町6反歩 11町5反6畝20歩
笹川村 1町1反歩 1町1反歩 1町6反6畝20歩 1町6反6畝20歩
久保田村 18町1反6畝20歩 18町1反6畝20歩 25町2反歩 14町2反歩 11町歩
福原村 17町4反3畝10歩 17町4反3畝10歩 25町3畝10歩 8町6反4畝歩 16町3反9畝10歩
高倉村 2町7反歩 2町7反歩 9町9反3畝10歩 3町8反3畝10歩 6町1反歩
梅沢村 2町8畝20歩 2町8畝20歩 5町2反9畝10歩 2町5反3畝10歩 2町7反6畝歩
八丁目村 17町1反3畝10歩 6町9反3畝10歩 10町2反歩 13町4反9畝10歩 10町1反歩 3町3反9畝10歩
合計 98町4反7畝25歩 9町8反5畝歩 88町6反2畝25歩 159町4反3畝20歩 95町4反4畝歩 63町9反9畝20歩

(郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書支配494)

 1781(天明元)年には小原田村の八作内と郡山村の石渕の普請工事が行われ、八作内には1万8,170人、石渕に2,738人の人足を費やしている。1791(寛政3)年にも八作内の普請が行われた。普請人足は第2表のとおりで、郡山組の村々を始め、杉田組・渋川組・小浜組・玉ノ井組・針道組・片平組・大槻組・本宮組・糠沢組の村々からも人足を出して普請にあたった。

第2表 小原田村八作内の普請人足数
組名 人数(人)
杉田組 871
渋川組 972
小浜組 1,704
玉ノ井組 1,081
針道組 1,545
郡山組 1,313
片平組 773
大槻組 893
本宮組 983
糠沢組 1,252
合計 11,387

(郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書水利18)

 郡山町では、石渕金(いしぶちきん)と称し普請費用の積み立てを図った。郡山町は1824(文政7)年に藩の許可を得て村から町となっていた。郡山町の町民は、度重なる洪水に対し金銭を出して水害対策にあたったのである。石渕金を郡山町の町民に貸し付け、利息を元金に加えて石渕金の増額を計った。そのため、石渕金は1829(文政12)年には712両となった。石渕金は、郡山町の商人や農民をはじめ、近隣村々へ貸し付け、その利息を普請費用に宛てるというものであり、石渕金の永続化も計っているのである。1854(安政元)年の12月から翌年11月までに、第3表のように郡山町の町民22人へ563両余を貸し付けている。利率は一年に30両につき一分の利で、一年の利率は一割二分と高率である。石渕金を借用している者は、増子真木蔵・永戸市郎右衛門・今泉与一郎・安藤忠介・横田治右衛門・川口半右衛門・阿部茂左衞門・今泉久右衛門等の郡山町の富商・富農・町役人等である。

(柳田和久)

(参考文献・資料)

福島県庁文書F二三九二

郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書

守山藩御用留帳(郡山市歴史資料館所蔵)