43 藩財政の窮乏と村々の負担

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 丹羽長重(ながしげ)は、1622(元和8)年に棚倉へ転封となった際に、棚倉城を2年かけて築城した。1627年(寛永4)年に白川へ転封となった際には、幕府より2万両を借金して、7年の歳月を費やして白河城を築城した。この他にも、江戸と二本松間の参勤交代や、江戸屋敷の賄(まかない)に莫大の費用支出を余儀なくされ、藩の財政は窮乏(きゅうぼう)していった。それに加え、徳川幕府から諸河川の国役普請(くにやくぶしん)・手伝(てつだい)普請をはじめ、多くの加役を命じられ、藩の財政窮乏に一層の拍車をかけた。

 二本松藩ではそれらの費用を国役金(くにやくきん)、借上金(かりあげきん)・貸上金(かしあげきん)等と称して領内村々へ賦課した。第1表は、大槻組に課した国役金・貸上金等である。1747(延享4)年には美濃国の諸河川の普請手伝、1763(宝暦13)年には増上寺の修復手伝、1775(安永4)年には甲斐国の河川の普請、1789(寛政元)年・1796(寛政8)年には美濃国・伊勢国の河川の普請手伝、1803(享和3)年に東海道筋と甲斐国の河川の普請手伝、1808(文化5)年に朝鮮通信使来聘の国役金、1816(文化13)年に上野御本坊普請手伝、1828(文政11)年に上野御霊屋(みたまや)と御廟向(ごびようむき)普請手伝、1848(嘉永元)年に大坂城普請手伝、1863(文久3)年・1865(慶応元)年に京都守衛、1867(慶応3)年に大宮御所造立御用等を命じられ国役金を納めている。国役普請とは、幕府の河川普請や御所・寺社等の造営に、国を単位に費用を賦課して行う土木工事のことである。手伝普請とは、幕府が行う江戸城や大坂城・二条城等の修復や河川の治水工事、日光東照宮や寛永寺・増上寺の修復などの土木工事に、手伝いとして費用を納入するものである。国役金は100石につき金3両の割合で納めた。1808(文化5)年には朝鮮通信使来聘の国役金は100石につき金1両、1865(慶応元)年の京都守衛は100石につき金一両二分、1867年の大宮御所造立は100石につき金3分の割合である。さらに、国役金と併用して貸上金を納めている。1808年の朝鮮通信使来聘と慶応3年の大宮御所造立御用は国役金のみであった。

 その他に、1731(享保16)年・1773(安永2)年・1777(安永6)年に婚礼費用、1784(天明4)年に村々御救費用、1794(寛政6)年に江戸屋敷類焼普請、1811(文化8)年に勝姫・侚姫の婚礼費用、1850(嘉永3)年に江戸屋敷類焼普請等にも課している。これらは、藩が独自に領内村々へ賦課したものである。

第1表 大槻組の国役金・貸上金の負担一覧表
年号  項目 国役金 貸上金 備考 
1747年 美濃国川々普請手伝 547両銀1匁7分3厘5毛 868両2分 100石に付3両の取立
1763年 増上寺修復普請 547両1分銀7分6厘9毛 500両3分 100石に付3両の取立
1773年 婚礼御用 170両1分
1775年 甲州川々普請 547両1分銀6匁4分9厘6毛 211両1分2朱 100石に付3両の取立
1775年 喜姫様婚礼御用 152両2分
1777年 婚礼御用 75両
1784年 村々御救 164両1分2朱小2朱
1789年 濃州・勢州川々普請手伝 547両1分銀12匁1分2厘7毛 312両2分2朱 100石に付3両の取立
1794年 江戸屋敷類焼 418両1分2朱小2朱
1796年 濃州・勢州川々普請手伝 547両2分銀3匁3厘9毛 234両2分2朱 100石に付3両の取立
1803年 東海道筋并甲州川々普請手伝 547両2分銀9匁3分5厘 211両2分 100石に付3両の取立
1808年 朝鮮通信使来聘の国役金 183両1分銀14匁6分7厘 100石に付1両の取立
1811年 勝姫様・侚姫様婚礼御用 146両
1816年 上野御本坊普請手伝 547両3分銀5匁9分8厘3毛 160両 100石に付3両の取立
1828年 上野御霊屋并御廟向普請手伝 547両3分銀5匁9分8厘3毛 321両3分 100石に付3両の取立
1829年 勝姫様婚礼御用 70両
1831年 献納籾 50石4斗(126 俵)
1838年 献納米 465石7斗5升(1,035俵)
1844年 茂姫様婚礼御用 436両
1847年 若殿様御乗出御用 203両2分
1848年 大坂城普請手伝 225両2分2朱 100石に付3両の取立
1850年 江戸屋敷類焼 650両
1851年 貞姫様引越入用 137両1分
1853年 政姫様引越入用 201両
1862年 蔵人・照姫様縁組御用 520両
1863年 京都守衛御用 412両1分銀1匁7分8厘4毛 才覚金1,500両 100石に付3両の取立
1865年 京都守衛御用 206両銀8匁3分9厘3毛 1,766両、外に才覚金1,500両 100石に付1両2分の取立
1867年 大宮御所造立御用 103両2分2朱銀2匁3分 100石に付3分の取立

(郡山市歴史資料館所蔵山岡家文書、郡山市大槻安斉家文書)

 貸上金・借上金は、二本松藩が領内村々の農民・商人より借金することである。1748(寛延元)年の美濃国の川除普請(かわよけふしん)から1829(文政12)年までに二本松藩に納めた者は、郡山上町では第2表のような人々である。但し、表には全てを掲載できないので一部にとどめた。郡山上町では、鴫原弥作(やさく)が356両、阿部茂兵衛(もへえ)は308両余、佐藤伝兵衛(でんべえ)137両余、名木又兵衛(またべえ)101両余、阿部茂右衛門80両余と、郡山上町で上納した者は135名で2,421両余にのぼっている。

 二本松藩では貸上金の返済を、火災の修復費用として一部を返済している。郡山村では1780(安永9)年・1799(寛政11)年・1807(文化4)年・1832(天保3)年に大火があり、家屋の修復費として借上金の1分を返済している。鴫原弥作は1781(天明元)年に8両、1799年に25両、1807年に28両3分の返済を受けた。阿部茂兵衛は1781年に4両、1799年に15両、1807年に21両1分である。佐藤伝兵衛は3回で26両1分、名木又兵衛は14両余、阿部茂右衛門は3両3分で、郡山上町では1781年に32名が109両1分、1799年に56名が309両2分、1807年に56名が317両余の返済を受け、1832年にも返済されている。

(柳田和久)
第2表 郡山上町貸上金総調表
年号 項目 名前
鴫原弥作 阿部茂兵衛 佐藤伝兵衛 名木又兵衛 阿部茂右衛門 鮎瀬作右衛門 村越古左衛門 樋口宗右衛門 川口半右衛門
1748年 美濃御普請 4両 10両 1両 25両
1756年 婚礼御用 5両 1両 15両
1760年 御招請御用 3両 1分 3分 1両2分 14両
1763年 増上寺御普請 33両 2両1分 3両 10両 40両
1773年 婚礼御用 5両2分 1両 1分 5両3分 2両
1774年 婚礼御用 4両 1両 4両 1両
1775年 甲州御普請 9両 4両2分 2両3分 12両1分 4両
1777年 婚礼御用 6両 2両1分 1両2分 6両 1両1分 2朱
1789年 甲州御普請 17両 17両 13両 1両2分 15両 3両 1両 1両
1794年 江戸屋敷類焼 32両 30両 19両 7両2分 19両 1分 1両 3両
1796年 勢州御普請 27両2分 25両 12両 5両2分 10両 1両 1両3分
1803年 甲州御普請 30両2分 33両 15両 18両 7両 7両 2両 3両
1808年 婚礼御用 8両2分 8両 3両2分 3両2分 2両2分 3両2分
1816年 上野御本坊御普請 20両 22両 11両2分 11両 7両 4両2分 1両 4両2分 6両
1828年 上野御霊屋御廟向御普請 130両 130両 40両 40両 50両 40両 35両
1829年 婚礼御用 30両 30両 10両 10両 13両 10両 10両
小計 356両2分 308両1分 137両1分 101両2分 80両2分 100両2分 106両2分 62両2朱 63両1分
1781年 安永9年郡山宿類焼 8両 4両 2両1分 5両2分 10両
1799年 郡山宿類焼 25両 15両 10両 4両1分 15両 16両 2両 2両1分
1807年 郡山宿類焼 28両3分 21両1分 14両 9両3分 3両3分 16両 17両2分 2両 3両3分
残額 294両3分 268両 111両 87両2分 76両3分 64両 63両 58両2朱 57両1分

(天保2年4月「郡山上町御貸上金惣調帳」郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書)


(参考文献・資料)

『国史大辞典9』

郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書・山岡家文書・安斉家文書