44 村の衰微と赤子養育仕法

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 江戸時代の農民は高負担のために疲弊(ひへい)し、生まれてくる赤子(あかご)を間引いたり堕胎するというようなことが行われていた。そのようなこともあって村々の人口は横ばいか減少気味であった。子どもが少なくなれば、将来の負担者が減少することになり、年貢納入もままならない状況になることは目に見えていた。そのため各藩では赤子養育仕法を定め、人口の増加を図った。

 二本松藩では1745(延享(えんきょう)2)年、「生育法」を領内に布達(ふたつ)した。その対象は(1)13歳以下の子どもが3人おり、さらに赤子が生まれた場合。(2)6歳以下の子どもが2人おり、さらに赤子が生まれた場合。であり、その上、極貧の農民、町人が対象であった。手当ては米で、13歳以下が4人になった場合はその年1年に限り米3俵、6歳以下が3人になった場合はその年1年に限り米1俵を支給する、という制度であった。この生育法は恩恵に与(あずか)るものが極めて少なく手当が1年限りというものであったが、農民からの受けは良かったようである。しかし、この仕法を実施しても二本松藩の人口減少は止まらなかった。

 1783(天明3)年の天明の大凶作後、1786年には生育法を大幅に改正した「赤子出生養育御達書」を布達した。この仕法の内容は、藩からの資金と豪商豪農からの献金を元手に一般領民に貸付を行い、その利息で米を買い付け、その米を養育手当てとして支給するものであった。給付の対象は二子(11歳未満)以上とした。さらに越百姓(他領や他村から引っ越してきた農民)も4年目から給付されるようになった。この改正でも効果は上がらなかったようで、1797(寛政9)年に再改正が行われ、金による給付を廃止し、米を増加して支給した。1802(享和2)年にはさらに改正があり、米の支給を廃止し、全部金で支給するようにした。こうした制度改革にもかかわらず、一向に間引きなどは無くならなかった。1814(文化11)年にはさらに改正を行い、金による支給を米による支給に替えるとともに、支給高の増額を行った。しかし、効果は少なく、この時期は人口減少を記録している。二本松藩最後の改革は1832(天保3)年に行われている。藩財政の悪化に伴って、現物支給が廃止され、金で支給することとしたが、大幅な減額支給であった。


天保2年「赤子育成手当御仕法」(守山藩御用留帳)

 三春藩では1746(延享3)年に始められたが、困窮(こんきゅう)百姓を選び、養育手当て願いを郡役所に提出して、それに基づいて手当てが支給された。1766(明和3)年の手当て額は米、麦、稗(ひえ)が各1俵ずつで、3歳になるまで支給されたが、支給された例は少数であった。天明の大凶作の後の1788(天明8)年には「赤子養育之定」が出された。その中で赤子養育の強化を打ち出した。特徴的なのは村々の五人組を基に五〇人組を作り、農民相互の協力援助を強化したことである。また、それらを統括する割頭は隔月に村をまわり妊娠改めを行った。各村々には妊娠改役(にんしんあらためやく)や出生改役(しゅっせいあらためやく)を置き、月々村まわりをさせ妊娠、出生の報告、監視を義務付けた。この改革は多少の効果があったようである。しかし、文政年間には再び人口が減少傾向になる。1822(文政5)年には再び養育制度の改革を行なった。内容は養育掛り役、郷中出生改役(ごうちゅうしゅっせいあらためやく)を置き、窮不窮(きゅうふきゅう)にかかわらず格別の手当てを支給するということであった。

 このように整備された三春藩の赤子養育制度も1831(天保2)年に財政難を理由に打ち切られた。

 守山藩では藩としての赤子養育制度が正式に発足したのは1831(天保2)年のことであった。1830年に五代藩主松平頼誠(よしのぶ)が藩主となったことを祝って領民より献納された金300両、米31俵、籾(もみ)51俵を元手に養育金を創設し貸付を行い、その利子によって「赤子生育御手当御仕法」を実施することにしたのである。内容は、三子以上を対象とし、三子については金3分、四子以上には1両を支給するものであった。金の支給は1回限りであった。自力による養育可能者は除外された。養育金は領内の酒造業者や商人に貸し付けられ、年1割の利息がとられた。

 越後高田領では、1781(天明元)年に「出生養育被仰出書」を布達し、赤子養育仕法を実施した。

 会津領では1776(安永5)年に赤子養育法が実施されている。

 笠間領では文化文政期に人口対策が打ち出され、各村の廻り方が妊娠改めをして、間引きの禁止を指導したが、養育手当ての支給までには至らなかったようである。

(佐藤新一)

天保3年 年中日記留(守山樫村家文書)(養育可能者の除外の例)


天保3年2月 実際の手当(守山藩御用留帳)


(参考文献)

『郡山の歴史』

『郡山市史』

『二本松市史』

『三春町史』