江戸時代に入ると全国の交通網の整備が図られるが、徳川家康は1604(慶長9)年に諸街道の整備を命じている。奥州街道もこの時期以降に整備されるようである。
江戸時代以前、郡山地方を通る幹線道路には古い奥州街道があった。笹川から日出山、小原田の東を通り、横塚から久保田、福原の東を通り、八丁目、梅沢、高倉山の東を通る街道であった。この街道は阿武隈川の西側に沿って北上していた。
また、関街道があった。白河の関から矢吹の東側、中畑、三城目を通り、阿武隈川を渡り、小作田(こさくだ)、守山、下行合(しもゆきあい)、阿久津、鬼生田を経て川俣、梁川(やながわ)、仙台方面に抜ける街道である。郡山地方では阿武隈川の東を北上する街道であった。
郡山地方での新しい奥州街道の整備は、阿武隈川沿いを避けるように、日出山から現在の小原田そして郡山に抜け、現在の久保田、福原、日和田、高倉に通した。旧国道と呼ばれている道路である。久保田や福原などは阿武隈川沿いから家々を移しているのである。特に久保田や福原は古い家並みがあった場所にはその痕跡(こんせき)が認められていたが、その後の開発によって大方は無くなってしまった。ただ現在でも地名には久保田字古町や字古坦、福原字本町や字古戸などが残っている。
新街道には一里塚が築かれ、旅人を風雨や直射日光から守るように松並木が植えられた。松並木は江戸時代の初期のものではないが、今でも福原の北の坂道の両脇や日和田の北の方に若干見ることができる。また、福原には一里坦跡の標識が立てられている。
街道の整備とともに宿駅も設けられた。宿駅とは人馬による荷物の継送(つぎおく)り、旅人の休憩(きゅうけい)・宿泊施設を備えた集落のことである。郡山地方では笹川、日出山、小原田、郡山、福原、日和田、高倉の7ヵ所が宿駅で安積七宿と言われた。宿駅には幕府役人や大名、武士の休泊所である本陣や脇本陣、一般の旅人の休泊所である木賃宿や旅籠(はたご)が作られた。また、人や荷物などを継送りする人足や馬を常備し、その業務を担当する問屋(とんや)が置かれた。
関街道は江戸時代を通して、脇街道となる。本街道が混み合っていたりした場合、こちらで荷物の継送りなどを行う場合が多かったようである。
その他、殿様道と言われる、大名が参勤交代に使用した街道に三春街道がある。須賀川から、守山、赤沼、高倉、荒井を通って三春へ抜ける道で、三春の秋田侯の参勤道でもあった。問屋は守山、赤沼、荒井に置かれていた。
白河から会津に抜ける街道には三代と福良に本陣と問屋が置かれ、三代の問屋は本陣の兼業であった。また、一里塚も三代と福良に残されている。三代から勢至堂峠(せいしどうとうげ)の間には鬱蒼(うっそう)と茂る松並木があったそうだが、太平洋戦争中、供木として伐採され、往時の面影が失われてしまったそうである。
その他、郡山から阿久津、舞木、山田を経て三春、船引、小野から平に抜ける街道や、郡山から日出山、金屋、守山、谷田川、田母神を経て長沢峠越えで平に抜ける街道があり、塩や海産物などが運ばれたり、年貢米の運搬などに使われていたようである。
また会津から猪苗代湖の北を通って楊枝峠(ようじとうげ)、中山峠越えの道や、南を通って中野から諏訪峠(すわとうげ)越えの道なども相当使われていたようである。
宿駅には継送りの人足や馬が準備されていたが、大名行列などではこの人馬の数では間に合わなくなることが多かった。そこで、宿駅付近の村々に助人馬(すけじんば)の調達をした。これが助郷(すけごう)である。大名の参勤交代の行列は、気候のよくなる時期に行われたので、近郷(きんごう)の農民の農繁期(のうはんき)と重なり、大きな負担となっていた。その上、奥州街道は東北地方の多くの大名が通るのである。
守山藩では、1856(安政3)年6月に幕府より下野(しもつけ)の太田原の助郷役に15ヵ村が割り当てられたが、該当村の庄屋(しょうや)や組頭(くみがしら)は助郷役免除願を出している。11月には再度、13ヵ村に幕府領小田川、太田川等の助郷役の命令があったが、こちらも免除願を提出している。農民の動きとともに、守山表(江戸藩邸)や本家水戸家も陰に陽に幕府へ免除の方向で動いており、この年の助郷役は免除になったようである。
1863(文久3)年2月には守山藩8ヵ村に白河領白坂宿の助郷役を命じられたが、4月には助郷役のない村々を含め、領内全村の免除願が提出されたが、守山表や水戸家の援助もあり、幕府では負担軽減策を出してきたが、最終的には応じなかったようである。
このように、江戸時代を通して郡山地方の交通網は整備され、荷物運搬業務の発達が見られた。助郷役免除の動きでは、それを免除させるような農民たちの動きも見られた時代であった。
(参考文献)
『郡山の歴史』
『郡山市史』