1 湯治について

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 「守山藩御用留帳」に領民の湯治願の記載は1703(元禄16)年の高湯入湯願が最初で、この年はただ1人の湯治者が認められる。享保期に入ると毎年10人台であった湯治人が、享保末期の1704年に46人、1705年には実に172人の湯治人を数え、1707年には146人となっている。

 第1表は、1735(享保20)年の湯治人についての様子である。湯治に行くには、陣屋へ湯治先と滞在日数・帰村予定日、さらには湯治の理由を記載し、湯治の許可を得る必要があった。湯治の理由はほとんどが形式的に「兼て病身に付」、「病弱のため」などと病身の記載となっている。なかには病名のわかるものあり、1708(宝永5)年3月大伴村庄衛門は女房が中風のため信夫(しのぶ)湯へ湯治願、1741(寛保元)年8月金屋村小左衛門は痔症のため土湯へ、1770(明和7)年1月山中村久米右衛門は湿(吹出物(湿疹)等)のため二本松領熱海へ湯治願を出している。


山田村(2人)、白岩村(7人)紀州熊野温泉の湯治願(守山藩御用留帳)

第1表 湯治人数(1735(享保20)年)調
人数 湯治先   ( )内は人数
閏3月 42 那須(25) 土湯(9) 岳(8) 長沼(3)
二本松領熱海(2)
4月 4 白川湯本(2) 信夫(1) 会津天寧寺(1)
5月 5 信夫(3) 土湯(1) 長沼(1)
6月 27 那須(8) 上ノ山(8) 信夫(8) 高湯(4) 土湯(2)
7月 62 岳(12) 土湯(11) 上ノ山(10) 信夫(9) 甲子(9)岩城湯本(6) 白川湯本(3) 那須(2)
8月 4 土湯(3) 長沼(1)
10月 2 信夫(2)
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(守山藩御用留帳)

 第2表は守山領民の主な湯治先について示したものであるが、中通りの人々がどこを湯治先としていたかを示している。県内は信夫・土湯・白川湯本・高湯・岳(だけ)が人気であり、二本松領熱海・長沼湯本・岩城湯本や会津の天寧寺(てんねいじ)(東山)も利用されている。県外では上ノ山・那須・鎌先(かまさき)・箱根が多い。特に、上ノ山・那須の人気が高く、上ノ山は10日から20日、那須は7日から15日の日程であった。

 また、遠方への湯治は長旅となり単なる湯治でなく遊山(ゆさん)のようになり、寛政期(1789~1800年)以降は箱根・草津・紀州熊野温泉などへの長旅が目立つようになる。湯治願には決まって「病身で難渋のため」とあり、病弱の者が集団で遠方へ湯治に出かけることはおかしいが、そこは陣屋の方でも心得ていたのである。

第2表 湯治先と人数
順位 湯治先 Ⅰ期 Ⅱ期 Ⅲ期
(県内) 元禄~寛延 宝暦~文政 天保~慶応
1 信夫 339 49
2 土湯 148 186 2
3 白川湯本 78 217
4 高湯 94 153 2
5 64 112 16
6 長沼湯本 45 46
7 甲子 13 60 2
8 二本松熱海 3 47 16
9 岩城湯本 25 23 1
10 飯坂 6 34 4
11 会津熱塩 38 1
12 会津天寧寺 11 6 1
13 湯治岐 6 3 1
順位 湯治先 Ⅰ期 Ⅱ期 Ⅲ期
(県外) 元禄~寛延 宝暦~文政 天保~慶応
1 上ノ山 409 510 8
2 那須 266 193 10
3 鎌先 12 158 25
4 箱根 47 74
5 草津 8 77 4
6 紀州熊野 4 69
7 相州熱海 32 2
8 塩原 2 18
9 米沢五色 12 2
10 相州湯本 11