2 参詣旅行について

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 伊勢参詣・熊野参詣・日光参詣・出羽三山参詣・古峰山参詣などが主なもので、なかでも伊勢参詣は農民の間に伊勢請がつくられ「お伊勢参りは一生に一度はするものだ」という言葉のとおり盛んであった。1741(寛保元)年の伊勢参詣の事例では、年が明けるとすぐに下行合村から2名の者が65日の日程で伊勢へ出発している。また6月29日出発の山田村の者達は庄屋半蔵・組頭弥十郎を含め一行7人で60日の予定で出発している。陣屋では「農業大方相済み許可」と、農作業に支障ないことを確認して許可している。隣村同士では2月11日に40日の予定で山田村の丑蔵と根木屋村五郎七の2名、北小泉村の平兵衛倅(せがれ)太六・次郎兵衛倅弥六と芹沢村半之丞倅長兵衛の3人は若者同士で同26日より40日の予定で出発し、途中予定を切り上げ4月3日に帰村している。

 この他に、伊勢参宮の隆盛のかげには逃げ参り(突然村から姿を消し参詣に出ること)も多くあった。無届の伊勢参詣で、若者同士が多く、抜け参りとも言われた。無届であり統制を犯すものと藩では処罰の対象とするが、帰村すると決まって菩提寺へ駈け入りしている。1741(寛保元)年には2例あり、1月19日から35日間の日程で大平村のいずれも15・6才の若者4名が伊勢へ逃げ参りしている。同年12月9日には大善寺村と金屋村とのあわせて17・8歳の6名の若者達が同様に45日間の予定で逃げ参りを行い、帰村後に菩提寺に駆け入っている。

 伊勢参詣のほかに、熊野講があり熊野参詣も行われていた。1716(正徳6)年6月には芹沢村与五七ほか5人が熊野参詣に出かけているし、さらに伊勢参詣の行程のなかにも入り、また湯治願のなかにも紀州熊野温泉とあり、これとは無関係ではなく根気強く続けられてくるのである。

 修験(しゅげん)関係では守山領内大平村の大祥院(だいしょういん)が中心となり大和大峯山(やまとおおみねさん)参詣の講中があり、早くから参詣が行われていたが、寛政期以降は藩主の祈願寺である堂坂妙音寺(みょうおんじ)など中心に出羽三山参詣も盛んになってくる。野州古峯山参詣も行われ、1830(天保元)年3月17日手代木村庄屋七衛門、1847(弘化4)年3月12日御代田村庄屋孫衛門が代参として行ったと記録されている。日光参詣も盛んで、1736(元文元)年8月に期間は15日間で根木屋村・山田村で夫婦連れを含む10名が一団となって出発している。

 ただ後期になると参詣には規制が打ち出されてくる。参詣は遊興的色彩が強く、陣屋でも取締を強化してくる。これは安永の藩政改革時に出されたものであるが、寛政期以降の「守山藩御用留帳」記載から伊勢参詣は姿を消してくる。

 しかし一方で、湯治のなかに紀州熊野温泉とか豆州熱海・相州箱根とかの遠距離地が多くなる。理由はいずれも「病身のため」とか「足痛のため」である。病弱な者がわざわざ遠方まで湯治に出て行くことはおかしいし、湯治に名を借りた参宮(参詣)も多くあったのである。

(大河峯夫)

(参考文献)

『守山藩御用留帳』(郡山市歴史資料館所蔵)

『駈入り農民史』(阿部義雄著)