2 駈入りの事例

93 ~ 94

(1) 出火人の駈入り

 1735(享保20)年閏(うるう)3月27日夜、南小泉村庄五郎の炭小屋から出火し母屋等を含め24棟を類焼する大火になる。その夜のうちに同村組頭が陣屋に報告すると、陣屋は明朝火元人(ひもとにん)を召出すよう命じる。翌日同村庄屋が出頭し、火元人は阿久津村安養寺(あんようじ)に駈入り、寺から出ないと報告したので叱り付け返す。同日安養寺が出頭し「師檀(しだん)の儀、是非(ぜひ)なく抱え置いた」と庄五郎は檀家であり寺抱えしたと訴える。陣屋は聞かず追い返す。その後安養寺は連日陣屋に赴き訴訟する。陣屋は度々の訴訟であると、入寺八日後に赦免を申渡す。翌日寺と村役人・火元人がお礼のため陣屋に出頭したので、今後火を粗末にしてはならないと訓戒(くんかい)し、火元人庄五郎は無罪放免となる。


安養寺(郡山市阿久津町)


南小泉村庄五郎出火のため駈入り(守山藩御用留帳1735(享保20)年)

(2) 駈落ち者の駈入り

 1719(享保4)年12月4日不景気により金沢村の貧農7人が、いずれも年貢の現金調達ができず駈け落ちした。関東に出て奉公しようとし奥羽道中を上がったが不景気のため雇うところなく、結局7人は同月18日に故郷に戻るなり、同村金昌寺(きんしょうじ)へ駈入った。無断出奔(しゅっぽん)の追及から逃れるためである。金昌寺の訴訟により出寺できたのは入寺後11日後であった。これが目明しにより連れ戻された場合は、駈入りどころか直接手錠刑となった。


(3) 村役人の駈入り

 村役人は村民に科人(とがにん)が出ると監督不十分の責任で処罰されることもあるので、それを逃れるため寺に駈入る事例も多かった。1720(享保5)年農民は食用米に窮(きゅう)するほど困窮した。そこで村役人たちも協力し、小川村・金沢村外7ヵ村の百姓たち大勢で陣屋へ押しかけ、強く夫食米(ふじきまい)を要求した。つまり強訴(ごうそ)の決行である。要求は解決されたが強訴の当事者・責任者の処分が残され、陣屋では責任者の村役人たちを手錠刑(てじょうけい)に処する方針であった。しかし、関係各村の庄屋・組頭は守山の金福寺(こんぷくじ)・観音寺(かんのんじ)・金沢村の金昌寺、小川村の円竜寺(えんりゅうじ)に駈入り、寺々の訴訟の結果入寺7日間位で全員赦免となる。


(4) 無籍者の駈入り帰住

 農業を嫌い出奔する者も多くいて、行方不明となり人別帳から外され、いわゆる無宿者になる者もいた。1722(享保7)年11月に正直村に帰住が叶(かな)った六助は、20年程前に駈落ちした者であったが、村役人と親類や五人組は帰住させてもよいと結論を出し、彼の菩提寺の甚日寺に駈入りさせ、帰住願を作成し陣屋に提出した。陣屋はまもなく帰住を許可している。


(5) 博奕(ばくち)での駈入り

 1735(享保20)年11月晦日(みそか)の夜、守山町左源太宅で博奕の風聞(ふうぶん)があり、陣屋役人が家に踏み込むが、逃げ出し同町金福寺へ駈入る。金福寺は寺抱えを訴訟し、陣屋は引渡しを迫った。金福寺の数々の訴訟により、陣屋は入寺5日で赦免を申渡す。翌日陣屋に出頭した寺・村役人と入寺人に対し、博奕は重き仕置しお)き(処罰)であるが、金福寺の度々の訴訟により特別に赦免(しゃめん)(許す)を申付け、今後は急度慎むようにと譴責(けんせき)している。


金福寺(郡山市田村町守山)

 これら駈入りの原因となる行為は、博奕、火元人、逃参り、喧嘩、争論、出奔人の帰住、役務怠慢、借金等々多種多岐にわたる。駈入りの目的は逮捕と糾明(きゅうめい)により本格的な処罰を免れることにある。ただし、それができるのは入牢ないし手錠程度に相当する犯罪や違反行為であった。また女性の場合事例が少なく制限されている。

 つまり、駈入りが守山領内で盛行したとはいえ、藩政を直接脅(おびや)かすこととなった百姓一揆の首謀者は極刑(きょっけい)に処しており、殺害や傷害事件等の刑事事件関係の者の駈入りも認めておらず、また封建社会の規範を破るような者には適用されなかったのである。

 守山領での駈入り行為の容認は、陣屋支配にとって、刑獄に向けられる人員と費用を考えると、小藩にとってより得策でもあったことも確かであった。

(大河峯夫)

(参考文献)

『駈入り農民史』(阿部義雄著)