二本松藩では藩士子弟教育のために、1817(文化14)年に藩主丹羽長富(にわながとみ)が文学7校、兵学1校、武術13校の師範家宅にあった学校を統一して「敬学館」を設けるとともに、習字のための手習所、弓術のための射的場、剣・槍・柔・居合などのための武芸所の教場を同一構内に設けた。
武芸所・射的場は1ヵ月に3度ずつ師範一人毎に日を異にして練習が行なわれた。手習所は、月に3回の休み以外は、毎日出席することになっていた。また、藩士の子弟のうち、長男は10歳から12歳までの3年間、二・三男は願いによって許可されたという。
「敬学館」における講義の概要は次のようなものであった。
一 二の日の講義、月三回
二十歳以上三十歳まで番入り後の、戸主・惣領無足
一 七の日の講義、月三回
十五歳以上十九歳まで、番入り前の惣領無足
一 四・九の会、月六回
学館各儒学者家塾の塾生であって、四書五経の素読を終了した者
一 副読会、月三回
学館各儒学者が、自塾の塾生に四書五経の購読をさせる。日時は各塾において定める。出席者は四・九の会に出席する者
一 春秋試験、月毎に二日間
出席者は四・九の会に出席する者
科目は一日目、和文漢訳・漢文和訳
二日目、七言律詩と七言絶句の詩作および和文漢訳、外は一日目と同様
朝、五つ(八時頃)より点灯時まで
一 御詰会、月三回
御大身(五百石以上)の相続者
輪講、儒学者一名臨席
一 詩文会、月一回
任意出席
一 手習書
番入前の惣領無足十一歳以上
願により二・三男も入学を許可される
修業年限は三年、授業は毎日正午から二時間くらい
一 御城講釈、月三回
御大身家の相続者全員
講師は学館儒学者
一 武術、朝夕二回各師範家道場にて稽古
一 医術、漢法、七の日、蘭法、一の日、各月三回、出席者は医師として禄を頂く者
このように、「敬学館」は藩士の相続者に対する教育が主たる目的であった。
藩校の教授では郡山出身のものは今泉徳輔(いまいずみのりすけ)と安積艮斎(あさかごんさい)がいた。今泉徳輔は横塚村の名主の家に生まれ、寛政の末、藩命によって豊島豊洲(としまほうしゅう)について漢字を学び、1806(文化3)年に二本松に帰り、藩儒(はんじゅ)となった。
安積艮斎は安積国造神社の神官の家に生まれた。1843(天保14)年に敬学館教授となっているが、藩儒として1年半ほど勤めたようである。艮斎は、毛利侯、長州の有備館(ゆうびかん)、徳山侯、今治(いまばり)侯などにも出仕している。
守山藩では、1761(宝暦11)年、二代藩主松平頼寛(まつだいらよりひろ)が江戸小石川の藩邸内に藩校を設けた。守山に建てられた「養老館」は邸内藩校の分校であった。頼寛自身も学問好きで『守山日記』『守山旧蹟考』など多数の著書がある。三代藩主頼亮(よりあきら)のとき、戸崎允明(とざきいんめい)を登用し、学事を統括させた。武芸は鈴木利以に担当させた。この頃から文教が大いに開けるとともに、武芸は朝夕2回の練習が行われた。藩士の子弟は必ず藩校に入学させた。
試験は春秋2回行われた。年度末には出席日数や学業の進度等により、賞与を与え、上達ぶりが抜群(ばつぐん)の者へは、格式(かくしき)や禄米(ろくまい)が与えられた。
戸崎允明は常陸松川の人で「寛政異学の禁」が発布された時、断固としてこれに抗した。
「養老館」は1871(明治4)年に「収同館」と改称し、学制発布まで続いた。
三春藩では天明(1781~1788)の頃、七代藩主秋田倩季(あきたよしすえ)によって講所が設けられた。授業をする所を「明徳堂」といった。武士の階級は、上から「上士」「中士」「下士」であったが、「明徳堂」は8歳から15歳までの上士の子弟と中士の嫡男に限って入学が許され、義務でもあった。下士や庶民の子弟は学長の許可によって、一般の授業の後、または夜にはいって学長室で授業を受けた。寛政(1789~1800年)の頃には入学を希望する者全ての入学を認める傾向になっていた。
毎月2回の復読の試験と春秋2回の年試があった。藩主在国の年には素読と講義が行われた。卒業試験に当たる大試験があり、成績優秀な者は自費のほか藩費で遊学できた。
教授には学長にまで進んだ倉谷鹿山(くらたにろくざん)や和算の大家、佐久間庸軒(さくまようけん)がいた。
武士の藩校に対して庶民は寺子屋で学んだ。郡山地方の寺子屋は三春・守山・二本松各藩においては自由に開設できたようである。
寺子屋はその名の示すとおり、学問のある寺の住職等に弟子入りして学習することに起源を持つのであろう。戦国時代すでに、鎮守山泰平寺別当坊に子供が弟子入りして学問をしていたという記録がある。しかし、江戸時代も後半に入ると庶民の教育も一般化し、幕末期には村役人層をはじめ、町人・職人の必要学として広く浸透した。
寺子屋に入る子供は早い子で7歳頃から、遅くても9歳から11歳頃までであったようだ。そして14歳ぐらいまで学習したようである。家が商家である場合などは12・3歳で退学し他家や自分のところで見習いをする者も多かったようである。
教科目は読み書き珠算(しゅざん)であるが、読みは素読、書きは習字であった。手本は師匠が準備し、筆子に渡した。寺子や筆子はそれをもとにして読み書きをしたようである。素読と習字は寺子屋の中心的な課業であったようである。
寺子屋の師匠は多い方から、名主(庄屋)、僧侶、農民、修験(しゅげん)、神官、医師、武士の順であった。寺子屋は各村々に1軒以上はあったようで、多いところでは郡山10軒、日和田8軒、多田野7軒、久保田、小原田、守山が6軒と続いている。
明治維新以降、日本が急速に近代化を推進できたのは、藩校や寺子屋のような教育機関が全国的規模にあり、読み書き算の基礎が国民に浸透していたからであろう。
(参考文献)
『郡山市史』
『二本松市史』
『三春町史』