江戸後期の儒学者安積艮斎(あさかごんさい)は、1791(寛政3)年に安積国造(くにつこ)神社(八幡宮・稲荷大明神)第55代宮司安藤親重(ちかしげ)の三男として生まれた。艮斎の生家安藤氏は安積国造(あさかのくにのみやつこ)の後裔(こうえい)で、古くは安積氏を称した。艮斎は長じて本来の姓の安積氏に復した。父親重は、城下の二本松神社宮司を兼務し、二本松藩内の神職を統轄した。また、本居宣長に私淑(ししゅく)した国学者としても知られた。
艮斎は、名は重信、また信、字は思順(しじゅん)、通称祐助、艮斎は号。幼くして好学の兄安藤重満(しげまろ)(伊勢松阪の本居大平の門に遊学した)の影響を受け、その後二本松藩儒(藩に仕えた儒学者)に漢学を学んだ。自らの意に反して横塚村(現郡山市横塚)の名主の家に入婿することとなったが、学問で身を立てようという志を持ち続け、17歳にして江戸へ出奔(しゅっぽん)した。
江戸の千住(せんじゅ)にたどりつき、たまたま道連れとなった妙源寺の住職日明(にちみょう)に助けられ、その紹介で佐藤一斎(いっさい)の門に入った。一斎は朱子学と陽明学の融合を試みた思想家で、艮斎もその学統を受け継ぎ、朱子学を主としつつ陽明学の思考も積極的に取り入れた。次いで林述斎(じゅっさい)の門に学んだ。述斎は、大学頭(だいがくのかみ)(昌平坂学問所の長官)として文教政策や外交を取り仕切った人である。
艮斎は24歳で江戸の神田駿河台(するがだい)に私塾を開き、46年にわたって門弟を教育した。1831(天保2)年には『艮斎文略』を出版し、その名が全国に知れわたった。1841年の『艮斎間話(かんわ)』では王陽明の言を用いて「天下の公道」「天下の公学」を唱え、道や学問の自由平等を提唱した。その他にも、思想・日本史・紀行文・漢詩集・海防論等に多くの著作を残した。
艮斎は自然探勝を楽しみとし、その紀行文を書いた。伊豆半島紀行の『遊豆紀勝』が大窪詩仏(おおくぼしぶつ)に激賞されるなど世評も高かった。各地の山河をめぐって、自然が造り出す景色を詩文に活写(かっしゃ)した。艮斎は日本山岳文学の開拓者でもあるのだ。
艮斎は、折々の感情や社会問題への義憤などを漢詩によって表現吐露した。自選の漢詩集『艮斎詩略』について、清国の学者兪樾(ゆえつ)は、「その志を見るべし」と評している。文名高く、『東瀛(とうえい)詩選』『日本八大家文読本(にほんはったいかぶんとくほん)』『摂東七家詩鈔(せっとうしちかししょう)』などにもその詩文が選ばれ、東の安積艮斎、西の斎藤拙堂(せつどう)と並び称された。
艮斎は渡辺崋山(わたなべかざん)が主宰した尚歯会(しょうしかい)の一員であり、海外知識に詳しく、西洋諸国のアジア支配に強い危機意識を持ち、わが国の行く末を案じた。漢訳の西洋書から情報を収集して『洋外紀略』(1848年)を著し、世界の情勢や海防を説いた。同著は薩摩藩の最高権力者島津久光が筆写し、水戸藩彰考館総裁豊田天功(とよだてんこう)が『靖海(せいかい)全書』(1853年)に一部を収録するなど、混迷した時代の道標となった。
1836(天保7)年二本松藩儒となり、1843年には同藩校敬学館教授として二本松へ赴任した。藩命により『明朝紀事本末(みんちょうきじほんまつ)』全80巻を校訂出版し、1年半で江戸へ戻った。1850年、60歳にして幕府の昌平坂学問所教授に就任、第12代将軍徳川家慶(いえよし)に進講した。
1853(嘉永6)年ペリー来航の際、アメリカからの国書を翻訳し、開国か鎖国かと世論が分かれる中、外交意見書を提出した。その内容は、いずれ開国は避けられないが、できるだけ引き延ばしてその間に軍備を固めるべきであるというものである。次いでプチャーチン持参のロシア国書を翻訳し、返書を起草した。
晩年は学問所内の官舎に住み、1860(万延元)年11月21日、70歳で没した。現在の湯島聖堂が終焉の地である。
後に大沼枕山(ちんざん)が「皇邦(こうほう)第一の儒」と、三島中洲(ちゅうしゅう)が「幕末の儒宗(じゅそう)」と評しているように、艮斎は幕末を代表する儒学者であった。儒学は、まず自分のおこないを正しくし、家庭をととのえ、国を治め、天下を平らかにしていくことを基本姿勢とし、指導者養成を志向する学問である。また、孟子以来、革命を正統なものとして位置付けてきた思想でもある。明治維新という事実上の革命は、儒学を行動原理としていた者たちが成し遂げたものであったと見ることもできる。また、漢文は当時東洋と西洋を結ぶ唯一の言語であった。西洋の事情は主に漢訳の西洋書を通じてもたらされたし、日本とアメリカ・ロシアとの初期の外交においても漢文は大きな役割を果たした。
ところで艮斎は教育者としても空前絶後の業績をあげた人である。艮斎が私塾・昌平坂学問所・各藩校などで教えた門人は3,000名に上るものと思われ、その中から近代日本を建設した人々が多数輩出した。市島春城(しゅんじょう)は、「明治の新天地を形作った材料とも言うべき人材の多くは、艮斎が養成した者である」と評している。艮斎門人帳(福島県重要文化財)には、私塾への入門者の2,280余名の出自と氏名が艮斎の自筆で記されている。
歴史に名を残した門人は200名ほど数えられるが、特に著名な人物を記して締めくくりとする。
小栗上野介(こうずけのすけ)(横須賀造船所建設)、岩崎弥太郞(三菱財閥の創始者)、前島密(郵便制度を創設)、吉田松陰(革命家)、高杉晋作(革命家)、栗本鋤雲(じょうん)(外国奉行、ジャーナリスト)、木村摂津守(咸臨丸提督)、福地源一郎(毎日新聞・商工会議所)、谷干城(たてき)(農商務相)、中村正直(まさなお)(啓蒙思想家)、三島中洲(二松学舎大学創立)、重野安繹(やすつぐ)(東大教授)、吉田東洋(土佐藩参政)、菊池三渓(さんけい)(奥儒者)、林壮軒(そうけん)(大学頭)、秋月悌次郎(会津藩公用方)、南摩綱紀(なんまつなのり)(会津藩士、東大教授)、阪谷朗廬(さかたにろうろ)(郷校興譲館主)、神田孝平(たかひら)(啓蒙思想家)、箕作麟祥(みつくりりんしょう)(啓蒙思想家)、楫取(かとり)素彦(政府高官)、長井雅楽(うた)(長州藩直目付)、宇田川興斎(うだがわこうさい)(『英吉利(イギリス)文典』を著す)、佐藤尚中(たかなか)(東京順天堂を開設)、斎藤竹堂(ちくどう)(『鴉片始末(アヘンしまつ)』を著す)、清河八郎(尊攘派志士)、岡鹿門(ろくもん)(漢学者)、近藤長次郎(亀山社中)、大須賀筠軒(いんけん)(漢詩人)、松本奎堂(けいどう)(尊攘派志士)、松林飯山(はんざん)(大村藩儒)、岡本黄石(こうせき)(彦根藩家老)、吉田大八(だいはち)(天童藩家老、勤王家)、鷲津毅堂(きどう)(尾張藩儒)、間崎哲馬(まさきてつま)(土佐勤王党)、木村鉄太(てつた)(『航米記』を著す)、宍戸璣(たまき)(政府高官)、倉石侗窩(とうか)(高田藩儒)、佐藤誠実(じょうじつ)(『古事類苑』編集)、島田篁村(こうそん)(東大教授)、菅野白華(すがのはくか)(奥羽・蝦夷地を調査)、来原良蔵(くるはらりょうぞう)(長州藩軍制家)、那珂梧楼(なかごろう)(盛岡藩儒)、権田直助(ごんだなおすけ)(国学者)、安場保和(やすばやすかず)(安積開墾を着手)