近世の仏教を知るには若干の日本の仏教の歴史を垣間(かいま)見た方がよい。
仏教公伝(こうでん)は6世紀の頃、百済王(くだらおう)から時の朝廷に伝わったとある。朝廷では新しい神の出現として崇仏(すうぶつ)する蘇我氏(そがし)などと、排仏(はいぶつ)する物部氏(もののべし)など2派に分かれて争った話は有名である。しかし、聖徳太子は崇仏で、三経義疏(さんぎょうぎしょ)を現わすとともに法隆寺を建立している。
奈良時代には聖武天皇が全国に国分寺(こくぶんじ)や国分尼寺(こくぶんにじ)、奈良に東大寺(とうだいじ)、法華寺(ほっけじ)を建立し、仏教の力で鎮護国家(ちんごこっか)を祈念しようとした。この時代は国家試験を突破したごく少数の者だけが僧となることができた。まさにエリートであった。僧は南都七大寺(なんとしちだいじ)(興福寺(こうふくじ)、東大寺(とうだいじ)、西大寺(さいだいじ)、薬師寺(やくしじ)、元興寺(がんごうじ)、大安寺(だいあんじ)、法隆寺(ほうりゅうじ))で仏教教学を究めた。教学の内容は南都六宗(なんとろくしゅう)(法相宗(ほっそうしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう))で、学問に秀でた僧は朝廷の要請で鎮護国家の法会に出席した。平安時代に入ると天台宗(てんだいしゅう)、真言宗(しんごんしゅう)も開かれ、南都六宗とともに八宗とよばれ鎮護国家を祈念した。(八宗は中世以降、顕密宗とも言われるようになる)。
やがて、鎌倉新仏教各宗派が勃興(ぼっこう)した。これらの宗派や修験宗(しゅげんしゅう)は戦国時代前後から、武士や農民、商人の間に影響を及ぼし大きな教団として成長していった。八宗(顕密宗)といわれる宗派の中でも特に天台、真言両宗は僧兵などを持つ大きな勢力になっていた。
古い秩序を嫌った織田信長は比叡山(ひえいざん)を、豊臣秀吉は根来寺(ねごろじ)を焼き討ちにしたが、高野山(こうやさん)は辛うじて難を逃れている。やがて徳川家康は、僧は学問を専らにせよと触れを出している。
江戸時代のごく初期に幕府は寺院法度(じいんはっと)を出し仏教勢力を支配下に置くことを制度的に確立していく。それが寺院の本末制度(ほんまつせいど)で、それぞれの宗派の本山を頂点として、地方本寺から末寺までピラミッド型の寺院制度を確立した。この後、寺院の本末は幕府によって宗派毎の本末帳に記載され、以後大きな変化はなかったようである。本山は教学の修学や僧の養成を専らにし、その宗派に対する触れや達しは江戸の触れ頭から出された。
郡山地方では大きな地方本寺として鎮守山泰平寺(顕密宗)の学頭坊(天台宗)と別当坊(新義真言宗(しんぎしんごんしゅう))があった。学頭坊は比叡山の直末寺で配下の寺院は17ヵ寺、別当坊は長谷寺小池坊の直末寺で配下の寺院は28ヵ寺あった。
その他、郡山地方の地方本寺には八幡村の護国寺(古義真言宗(こぎしんごんしゅう))と片平村の岩蔵寺(がんぞうじ)(新義真言宗)があった。護国寺は高野山如意輪寺(にょいりんじ)の直末寺で配下の寺院は7ヵ寺、岩蔵寺は醍醐寺報恩院(だいごじほうおんいん)の直末寺で配下の寺院は2ヵ寺あった。
末寺の住職が交代する時には、守山領の場合、檀家(だんか)総代が陣屋にその旨の承認願を提出するが、地方本寺は奥判のある添え書きを一緒に提出した。
次に檀家制度であるが、この制度は今も根付いており、世界にも例を見ない制度である。
そもそも1613(慶長18)年、キリスト教を実質的に禁止するため、宗門改(しゅうもんあらた)めを行い、寺請・檀家制度として、宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)を作成した。この結果、全ての住民が近くの寺院の檀家となった。落ちや漏れがないほど徹底したものである。そして、数年に一度は宗門改めで、村々の家族全員が再確認されるである。さらに、寛文(1661~1672)年間以降は、旅行・婚姻・出生・死亡・移住・離縁には必ず寺請証文(てらうけしょうもん)が必要となり、檀家でなければ発行してもらえなかった。また、改宗・寺替の自由もなくなった。
このようにして、寺院は檀家の葬式や先祖供養を専らにし、檀家は寺参りや、寺院の造営・修理をよくすることが勤めとなった。
その他、郡山市内の村々には修験(山伏(やまぶし))があった。修験は本山派(ほんざんは)と当山派(とうざんは)があったが、本山派は京都聖護院(しょうごいん)が本山で全国の多くの修験を束ねていた。当山派は大和の修験が中心となっていたが本山派に対抗するため、慶長(1596~1614)年間の頃に醍醐寺三宝院(さんぽういん)を本山として頂くようになった。
地方には年行事職と言われる元締めがあった。郡山地方はほとんどが本山派であり、安積郡の年行事職は大谷村の万蔵院(まんぞういん)で田村郡の年行事職は蒲倉(かばくら)の大祥院(だいしょういん)であった。その配下の修験はおおよそ、各村々に存在していた。
修験は山伏とも言われているように、熊野山や大和の大峰山に峰入りし荒行をした。そして、厄難消除(やくなんしょうじょ)、吉凶占(きっきょううらな)い、方(ほう)を見るなど民衆の様々な願いに対応した。近世から近現代に至るまで法印様(ほういんさま)と呼び習わされていることが多い。明治になって修験はいったん廃止(修験宗廃止令)されたが、現在は復活したり、神主になったりしている。
このように江戸時代にできた仏教の仕組みは現在まで、民衆の間に計り知れない大きな制度的、思想的影響を与え続けているのである。
参考文献
『江戸幕府寺院本末帳集成』
『郡山市史』