郡山は宿場町であるが、栄えるのは元禄期以降となるので、町人の文化はなかなか花開かなかった。それでもよそからの影響で文化学問をする人たちが現れている。
1689(元禄2)年、俳人松尾芭蕉(まつおばしょう)はおくのほそ道行脚の途中の4月29日(旧暦)須賀川を発って乙字ヶ滝から守山に寄り、金屋の渡しを渡って郡山で一泊している。次の日は日和田から二本松、福島へと抜けている。「おくのほそ道」本文は須賀川から日和田へと飛んでいるが、随行(ずいこう)した曾良(そら)の日記によると乙字ヶ滝より小作田を通って、守山大元明王(たいげんみょうおう)で様々な宝物を拝観(はいかん)している。金屋の渡しから郡山に出て一泊しているが、曾良は「日ノ入リ前、郡山ニ到リテ宿ス。宿ムサカリシ」とのみ記している。
芭蕉のおくのほそ道紀行のあと、何人もの人達が芭蕉の跡をたずねているが、そのような影響もあり、また、須賀川俳檀(はいだん)の影響もあったりして郡山にも俳句を嗜(たしな)む人達がようやく増えてきた。元禄頃の句集には郡山周辺の俳人たちの名前が見える。1695(元禄8)年に二本松藩の日野文車(ぶんしゃ)が編集した「花かつみ」には郡山の俳人の名前が見える。1699(元禄12)年に須賀川の相楽等躬(さがらとうきゅう)が編集した「伊達衣」には「花かつみ」に入集された俳人の他に、郡山、八幡、高倉、日和田の俳人らが見える。翌1700(元禄13)年、同じく相楽等躬が編集した「一の木戸集」には上小泉、大谷、高倉の俳人の名前が見える。これらの人々は名主などの村役人、問屋、神主、僧侶などであった。
江戸の俳人山崎北華(やまざきほっか)は1738(元文3)年、笹川天性寺の懐州和尚に誘われて寺に泊まり、笹川の俳人達に歓待され、ともに句を詠んでいる。北華は次の日、須賀川の藤井晋流(ふじいしんりゅう)の元に出発している。この晋流の門人に大槻の安斎晋晟(あんざいしんせい)がいた。徒然と号し、郡山の宗匠として晋流に信頼され、晋流の「時雨塚」碑の建立や句集の出版に尽力している。
宝暦の初め頃、磐城の露仏庵沾圃(せんぽ)が謡曲の師匠として郡山に招かれているが、謡曲の弟子たちは沾圃の俳諧に強く引かれた。沾圃は大槻の晋晟とも親交があった。沾圃の影響を受けて有名になった宗匠に郡山の佐々木露秀(ろしゅう)がいる。露秀は佐々木文右衛門といい、上町で旅籠屋をしていた。沾圃からの指導で俳諧に目覚め、次第に中央と交流して安積不孤園社という俳社を結成した。晋晟はよく露秀の相談にあずかった。芭蕉80年忌には、善導寺に句碑を建て、「埋木文台時雨供養之表」を刊行した。沾圃七年忌には、善導寺に墓を建てて「家とうじ」を出版している。そのほか露秀は堂坂の妙音寺に句碑を建てるとともに「蝉塚集」を出版している。この句碑は今、大慈寺にある。また、栃山神や狐田稲荷の句碑も書いている。麓山公園内の出島にある2つの句碑は露秀の家の遊女のものである。露秀没後の郡山俳檀は衰微していった。
二本松藩は幕末に最上(さいじょう)流の和算家である渡辺治右衛門を召し抱え和算に新風を吹き込んだ。最上流は三春の佐久間朴斎(さくまぼくさい)・庸軒(ようけん)父子に伝えられ、各地に浸透した。明治の安積開墾測量、安積疏水測量、字切図測量、地租改正の田畑耕作図の作成などは最上流の和算家の仕事であった。和算の上達を願って寺社に奉納された算額は市内各所に残されている。
儒学では安積艮斎がいる。艮斎は号である。安積国造神社の神官の家の出で、漢学を横塚の名主、今泉徳輔(のりすけ)に学んだ。今泉徳輔は名主ながら二本松藩の藩儒となった人である。艮斎は1805(文化2)年、16歳で今泉家の養子となっているが、翌年江戸に出て苦学の末、24歳で私塾を開くほどになっていた。また、1843(天保14)年には二本松藩の藩儒として召し抱えられたが1850(嘉永3)年55歳で幕府の学問所である昌平黌(こう)の教授に迎えられている。ここで70歳の生涯を閉じた。門人には福島県知事で開成開拓に力を注いだ安場保和(やすばやすかず)や高杉晋作、吉田松陰、岩崎弥太郎、前島密などがいる。
守山藩には藩儒として名を揚げた戸崎允明(とさきいんめい)がいる。允明は幼い時より学問の才能を見せ、のち守山藩の藩校「養老館」教授の平野金華に学び、やがて守山藩の家老となり治績をあげた。戸崎允明は能書家としても知られ、片平の王宮伊豆神社境内の「葛城王祠碑(かつらぎおうしひ)」はその代表作である。
画家には幕末に魵沢耕山(えびさわこうざん)がいる。福原に生まれ、その画才を阿部茂兵衛に見出だされ、白河の蒲生羅漢に学んだ。後に京都に上り、中西耕石に学びその画業を大成させた。弟子には下町の永井耕雨がいる。
同じころに湖南の福良から、斉藤香石が出た。会津の遠藤香村に学び諸国を遊歴して画業を磨き、その画風は最盛期の福良焼の絵に影響を与えた。
(参考文献)
『郡山の歴史』
『郡山市史』
『俳諧人名辞典』
『福島縣俳人事典』