1868(慶応4)年3月19日、奥州鎮撫総督九条道孝(おうしゅうちんぶそうとくくじょうみちたか)一行が蒸気船で松島湾より上陸すると、総督府は仙台藩校養賢堂(ようけんどう)を本営と決め、仙台藩に対し会津追討を命じ、二本松藩にも会津追討応援の命を出し会津追討の催促を強化する。これに対し、会津藩も東辺藩境の峠筋に守備兵を配置し、総督府諸藩と対峙(たいじ)する。4月19日、土湯峠で仙台藩兵と会津勢とが交戦をはじめ、閏(うるう)4月3日には御霊櫃峠(ごれいびつとうげ)を守備する会津兵と仙台藩兵が交戦している。
なおこのころ、対峙する会津兵による掠奪(りゃくだつ)と放火が繰り返され、4月23日熱海の中山・竹ノ内の両部落が放火により全焼、閏4月1日から6日にかけ多田野村大久保・休石、堀口部落、7日河内村滝部落が放火により焼失した。同10日会津兵は駒屋村に放火し土蔵を開けて諸品道具を奪い、帰途(きと)に八幡村・富岡村に放火して逃げ去っている。
一方、総督府の会津追討に不信を抱く東北諸藩は、閏4月19日、奥州鎮撫総督府の強硬派の参謀世良修蔵(せらしゅうぞう)を福島で惨殺(ざんさつ)し、仙台・米沢両藩の提唱により白石城で東北諸藩の代表が会合する。そして5月3日「奥羽二十五藩盟約書」に藩代表が署名し、6日に北越(ほくえつ)六藩も参加する「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」が成立し、東北諸藩は東征軍(とうせいぐん)と全面的に対峙(たいじ)するようになる。