4月3日、二本松藩郡代羽木権蔵(はねきごんぞう)等3名が郡山に出張し「国事多端(こくじたたん)、非常切迫(ひじょうせっぱく)に付」と才覚金(さいかくきん)7,000両の献納を要求してきた。郡山町では22人の商人から7,000両を10日までに取り揃え、翌11日今泉半之允・阿部庄右衛門の両名が二本松に赴(おもむ)き納めている。これは二本松藩の戦費調達のための資金で、藩庁の見積もりは領内全体で2万5,000両となっていた(第1表)。郡山町の7,000両は二本松城下の7,800両に次いで多く、城下町以外では郡山町が藩財政を支えていたことがわかる。また戦況が激しくなった6月2日、郡奉行梅原新吾・上田唱両名が郡山に来て、才覚金2,000両の献金を要求する。郡山町民はこれを4期に分けて分納するとしている。
金 額 | 場 所 | 割合(%) |
---|---|---|
7,800両 | 城下六町 | 31.2 |
7,000両 | 郡山宿 | 28 |
800両 | 郡山組 | 3.2 |
1,400両 | 大槻組 | 5.6 |
1,700両 | 針道組 | 6.8 |
1,200両 | 小濱組 | 4.8 |
2,000両 | 本宮組 | 8.0 |
1,000両 | 杉田組 | 4.0 |
700両 | 糠澤組 | 2.8 |
500両 | 八丁目組 | 2.0 |
400両 | 片平組 | 1.6 |
300両 | 渋川組 | 1.2 |
200両 | 玉ノ井組 | 0.8 |
25,000両 | 100 |
(「慶応四年四月郡山宿御才覚金請印記上帳」(今泉家文書))