騒動の気配は治安機能が喪失した27日頃から起こった。片平組の者が米倉より米を奪ったとの噂を聞き、8月1日早朝には300~400人の群衆が蔵場(くらば)に集まり、郷蔵から米を引き出そうとした。町役人が駆けつけ、代官屋敷で米俵を支給すると再三の説得をした結果、群衆は郷蔵より引き揚げ、町役人が米700~800俵を手配して、事は鎮静したように思えたが、夕刻になり群衆が質品(しちしな)返還要求を唱えて町内の質屋等を襲った。この時は質屋ばかりでなく町内の富商14軒が打ちこわしにあう。町は三春滞陣の東征軍の進駐を要請し、3日夕刻大村藩兵が郡山に進駐する。郡山町でも自警団(じけいだん)を組織し市中警衛巡邏(じゅんら)を実施することで、騒動はようやく鎮静化する。
なお、打ちこわしは近在にも波及し、川田・成田・駒屋・下守屋でも記録され、大槻村では騒動で村役人宅が襲われ、1名が殺害されている。
騒動の余波が残る8月7日早朝に会津兵が来襲する。如宝寺辺りで発砲の音が聞こえ、会津兵が所々に放火すると、折から北西の風烈しく大火となる。夕刻までに上町木戸門(きどもん)の手前西側2軒残し両側残らず燃え、阿弥陀町(あみだまち)・東町(ひがしまち)・北町(きたまち)・稲荷町(いなりまち)を焼失。蔵場(くらば)町の郷蔵、如宝寺及び馬頭観音堂、安積三代官所役宅、町足軽宅と牢獄も焼失した。当時の上町戸数は479戸で上町焼失戸数が389戸を数え、実に約8割を焼失した。さらに、14日会津兵の来襲で残っていた善導寺も鐘楼共に焼失する。
総督府(そうとくふ)は8月13日付で降伏した二本松藩に代わり、郡山組と片平組の村々を守山藩の支配下に置き、9月11日付けで大槻組も同様に守山藩の支配下に置いた。こうして郡山町は守山藩の管轄下に置かれてくるが、まだ会津が落城する前のことでもあった。