守山藩は総督府参謀より、8月14日付けで備前(びぜん)(岡山)藩への「兵食賄方(へいしょくまかないかた)」を命ぜられ、備前藩に同行するようになる。8月24日、母成峠(ぼなりとうげ)から猪苗代を経て会津城下へ、守山藩は備前藩の輜重(しちょう)(荷駄)隊として、会津落城まで約1ヵ月の会津攻防戦に参戦する。守山勢は領内各村からの徴用農民を含め370人余で、この攻防戦で蒲倉(かばくら)村徴用農民1名が会津兵の銃弾をうけ死亡する。会津降伏後の10月3日、会津城下を引き払い二本松・福島を経て、白石に滞在していた10月9日、守山藩への解兵届が参謀府より到来する。そこで12日に白石を出立し16日守山陣屋に帰陣する。10月24日には守山陣屋で、この戦役で徴用された農民を含めた盛大な凱旋(がいせん)の祝宴を催しているのである。
(大河 峯夫)
(参考文献)
『郡山市史』
『慶応四年年中公私日記』(樫村家文書)『史料 郡山の戊辰戦争』(佐藤和司編)