1 守山藩民政取締所支配下

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 戊辰戦争下の1868(慶応4)年7月29日、新政府軍により二本松は落城した。その前日安積三組の代官達が二本松に退くや、途端に無政府状態になり、各地で貧民達が村役人や富裕商人宅へ押しかけて打壊しや略奪、質品取戻し、藩の蔵米からの盗米などを行い大混乱となった。8月7日、会津兵による砲撃と放火を受けて、郡山宿の中心部はほとんど焼失した。二本松藩の支配下にあった安積三組は郡山組・片平組が8月13日、大槻組が9月3日に守山藩の民政取締所支配下に入った。8月14日守山藩郡奉行額賀加藤治が鉄砲と槍で武装した一隊を率いて安積三組の打壊し被害状況を見て回り、村人を集めて「強奪品を返却せよ、今後徒党を組んで打壊しをしたら厳罰に処す」と申し渡した。19日新政府は奥羽総督府参謀名で「兵火を蒙(こうむ)った者は今年の年貢を免除し、戦場にかり出された者は半免にする」との制札(せいさつ)を出し、百姓の慰撫(いぶ)に努めた。9月8日に元号が明治に改められた。

 しかし戊辰戦争はまだ続いていた。新政府軍は会津総攻撃の兵糧米(ひょうろうまい)や弾薬を運ばせるために、身体満足な男子16歳から60歳までの人数と牛馬数を調べ、全て徴発した。さらに各村で年貢の他に少しずつ籾(もみ)を納めさせ籾倉に蓄えていた僅(わず)かな籾や梅干、布団、鶏までも官軍御用達と称して持ち去った。新政府になっても命令や達・調査・徴税など村政は名主(従来の村役人)を通して行なわれた。9月、守山藩民政取締所は戦争で被害を受けた人々を救済するために兵火・略奪・災害・助郷人足・軍夫・軍馬の徴発による田畑の荒廃状況を各村の名主を通して調べさせ、11月の調査を基に年貢の半免を通達した。

 戦争で人々は疲弊し、その日の飯米も事欠いていたが村には手持米が少なかった。郡山宿は8月16日役所に貧民への貸付籾願を出し、大槻村では12月飯米の払下げを受けて急場をしのいだ。

 1868(明治元)年10月、郡山宿の村役人達は焼土からの復興に際し、上町、下町という町名を本町、大町に変更してほしいと願書を役所へ提出し、翌年許可された。同月15日、役所は新築用材として小原田・福原・八山田・荒井村の官有林から松杉の伐採を許可し、その建築資金も貸し与えた。1869(明治2)年5月に、旅籠屋(はたごや)14名が宿場町復興のため、宿屋建築資金2,700両の貸し付けを役所に願い出ている。


焼失人江御立林ニ而被下材木積立書上帳(今泉家文書・郡山市歴史資料館所蔵)