2 笠間藩磐城平(いわきたいら)民政局から白河県管轄へ

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 1869年2月30日、安積三組は守山藩民政取締所支配から笠間藩磐城平民政局の統治下に移るが、同年9月30日には白河県管轄へと支配替えされた。この年は春の半ばより低温曇天が続き、降雨多く冷害凶作の兆(きざ)し(田畑共5分作以下)があった。平民政局は餓死者を出さぬよう貧窮者に救助米を貸し出すため蓄穀(ちっこく)の準備を始めた。6月からそのための救助金を有志より募集した。郡山宿は「救助米買入才覚金」を募り、6月2,000両を上納、大槻組は7月700両を上納した。一方、郡山宿は9月に、凶作なので税金を減免してほしいと願い出ている。12月に入ると白河県から「御救助筋御備穀調達金」が割り当てられ、郡山宿3,200両、郡山組800両、大槻組1,200両、片平組800両、計6,000両を上納した。さらに郡山宿では有志41名が1,395両の救助金を拠出した。年末には米価が1867(慶応3)年の約4倍に跳ね上がり、各村では病弱者や貧窮者から救助米借用願が役所へ出された。


御救助筋御備穀調達金請印取立帳(今泉家文書 郡山市歴史資料館所蔵)


宿内貧窮者救助米売渡人数石数取調書上帳(今泉家文書・郡山市歴史資料館所蔵)

 戊辰戦争後取締官がいなくなった郡山宿は、盗賊や悪党が出没し、人々は不安な日々を送っていた。そのため須賀川にある取締出張所を郡山へ誘致しようと、有志が資金を募り陣屋に出張所用家屋を建設、平民政局へ何度も請願したがかなわなかった。白河県管轄に入るや猛運動を展開し、福島県移管後も続けた。1873(明治5)年2月安積郡の村役人たちは県庁へ白河と福島の中央の地への出張所設置を歎願したが実らなかった。

 政府は1869年、産業を盛んにしようと資金を貸し付ける「生産方」を各地に設けた。1870年7月、県はさらに資金を増し、組織を拡大した「生産会社」の設置を呼びかけた。郡山では「郡山微弱なりと雖も金を積むこといと易し」と、旧名主や有力商人らが設立世話係となり、安積郡内61名の出資者から1万両の会社資金を集め業務を開始した。阿部茂兵衛を頭取に永戸直之介や鴫原弥作、橋本清左衛門他14名が役員に選ばれ、地方産物の取次や生産者への援助のほか、生糸・米・衣類などを担保にとり、資金を貸し付ける銀行的な仕事を行った。1872年4月には「物産方」と名称を改め、県から資本金を借り受けて、営業範囲、取引共大規模になった。大槻原開墾や郡山学校設立への投資、製糸事業の拡大など郡山発展の一翼を担った。


郡山生産会社規則(『郡山市史4』P154より転載)

 1871年4月、白河県は出生児の養育手当を目的に「慈幼法(じようほう)」を布告した。藩政時代の「赤子養育御修法」に倣(なら)うもので、戦後の動揺した民心の安定のため70歳以下15歳以上の県民の積立金によって運営された。郡山宿で1871年に養育手当を受けた者は住民の約2割、1874年には1割6分であった。この制度は1874年に新しい救済規定に引継がれた。

(伊藤光子)