明治初期の行政管轄は目まぐるしく改編した。安積三組はまず守山藩、次いで笠間藩の支配下に、その後の廃藩置県により白河県管轄に入る。1871(明治4)年11月2日には白河県が廃され、中通り六郡(信夫・伊達・安達・安積・岩瀬・白河郡)を管轄する二本松県となるが、2週間足らずの同月14日には福島県と改称された。現在の福島県の地域は当時、若松県・磐前(いわさき)県・福島県の3つに区分されていたが、1876(明治9)年8月21日、これら3県が統合して新福島県が誕生した。
一方、地方行政組織も何度か変わった。新政府は中央集権化された政策を遂行するために、旧来の郡組町村組織を否定し、旧数町村よりなる小区と、数小区よりなる大区に区画した。旧町村には副戸長、小区には戸長、大区には区長を置いた。1872(明治5)年4月に大庄屋・庄屋・名主などの名称を廃止し、大庄屋は戸長、名主は副戸長と改称した。同年7月に6大区に区画し、安積郡は第4大区となる。
組名 | 区 | 戸長名 | 村数 |
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片平組 | 小1区 | 矢吹善左衛門 | 11ヵ村 |
郡山組 | 小2区 | 今泉久右衛門 | 14ヵ村 |
大槻組 | 小3区 | 山岡 友次郎 | 12ヵ村 |
1874年1月、福島県は大小区制を廃止し、県内を15区に分け、それぞれに区会所を置く15区会所制に改めた。これにより安積郡は10区となり、区会所を大槻原の開墾事務所(旧開成館、現開成山交番向かい公園地)内に置いた。第10区会所として翌年10月、現開成館が建設されると開墾事務所もそこに入った。区会所には区長1名(中條政恒が兼務)と戸長3名、書記3名を任命。各村には用掛(ようがかり)(副戸長から名称変更)1~2名と10戸を目安に什長(じゅうちょう)1名を置いた。1875(明治8)年12月、県は15区会所の区画を改めて10区会所に整理統合し、安積郡は第7区となった。