政府は高まる公選民会開設要求を受けて、いわゆる地方三新法「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」を1879(明治12)年1月に施行した。これにより福島県は「福島県民会規則」を廃止。この新しい制度は旧来の伝統的な実態を尊重する制度への転換を図るもので、区制は廃止され郡町村制に戻した。町村長の公選など町村を不完全ながら自治体と認める一方、郡に郡長を新置し県令や郡長に強い規制権を与えて県会・町村会・戸長らを監督した。同年7月、第7区会所は安積郡役所と改称し、初代郡長に桑名茂三郎を任命。西安積といわれた現在の湖南地区は、このとき安積郡役所の所轄となった。各村に戸長役場を設置したが、行政費節減のため2ヵ村以上が連合した役場もある。郡山村は横塚村と合わせて旧陣屋(現在の燧田)の建物を修繕し戸長役場とした。その後何度も場所を移転している。今泉久三郎が公選投票で戸長となり、郡山村に用掛2名、横塚村に用掛1名を置いた。府県会規則による第1期の県会議員選挙が行われ、安積郡は定員3で国分伴内(片平村)、野田太郎兵衛(野田村)、阿部茂助(郡山村)が当選した。
1882(明治15)年1月、桑野村の開成館にあった安積郡役所を郡山村の陣屋跡に移した(戸長役場は一時戸長自宅に置く)。建物の修繕費や移転費用、開庁祝は一切郡山村が負担した。1885年には堂前(現在の消防署)にバルコニー付き木造2階建洋風の安積郡役所が完成した。
1883年4月1日、財政負担を減らし税収を確保するために、戸長役場の管轄を数ヵ村に拡大した連合(組合)戸長役場制を施行した。大槻村外4ヵ村は大槻村・河内村・片平村・多田野村・桑野村で大槻村に戸長役場を置き、従来の戸長は用掛となり、それぞれの村の行政を分担、戸長を補佐した。民選戸長から官選戸長となり、大槻村では1883年山下保之、翌年相沢雄次郎、1886年9月から1890年4月の市町村制施行まで今泉久次郎が就(つ)いた。