55 「旧来ノ歳入ヲ減ゼザル」税制改革 ―郡山地方の地租改正事業―

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 明治新政府の財政基盤はまことに弱く、安定した財源確保のための税制改革は最緊要課題であった。しかし資本主義が未成熟だった当時の日本では、主たる財源を地税(地租)に求めざるを得ず、そのために封建的土地所有制を廃止して近代的土地所有権を保証し、地主・農民から安定した金納地租を徴収する地租改正事業を早急に成しとげる必要があった。

 政府はまず1872(明治5)年2月、土地永代売買の禁止を解き、地主・農民の土地所有を保証する地券交付を布達し(壬申地券(じんしんちけん))、福島県(当時は中通り六郡)も同年4月から地券交付業務を開始する。さらに翌73年7月、地租改正法(地租改正条例など)が布告され、基本方針が示された。その骨子は、①土地からの収益を基礎として地価を算出し、その地価を課税の基準とする、②当分の間、地租は地価の100分の3(3%)とし、豊凶にかかわらず増減しない、③将来商工業関係の税が増えれば、地租は1%にまで減額する、④地租負担者は地券を交付された土地所有者とし、すべて貨幣で納入する、というものであった。


1879(明治12)年発行の地券『郡山市史4』P74(上行合 佐藤家文書)

 地価の3%という税率は、地租改正局の責任者松方正義が言明したように「先ヅ旧来(幕藩時代)ノ歳入ヲ減ゼザルヲ目的トシテ」設定されたもので、「地方官心得」の地価算定方式によれば、自作農所有地の収穫代金の割合は、種子肥料代(生産費)15%、国家取分(地租)34%、農民取分51%となり、旧幕藩時代と変わらぬ割合であった。小作農については、小作地の地代(地主作徳プラス国家取分)68%とし、高額小作料を公認するものであった。安積郡(現郡山市の大部分)は74(明治7)年1月に福島県第10区となるが、その区会所は開成山(同年8月、開成館完成)に置かれ、各村の旧名主などを戸長・書記・用掛に任命し、田畑の地価調査や荒地・官林調査など、地租改正の基礎作業に着手している。


1874(明治7)年8月に完成した開成館

 75(明治8)年3月、強力な地租改正事務局(大久保利通・大隈重信・松方正義・前島密ら)が発足し、7月には「地租改正条例細目」を定め、「旧貢租(こうそ)額の維持」を貫徹するための地価調査の統一的な準則を示した。これより先、福島県令安場保和(やすばやすかず)は、地方官会議(6月、於東京)を前に独自の民会規則(区会・町村会)を定め、「民意調達」をはかっている。第10区(安積郡)では4月に区会(於開成山)、5月に各村会を開いて意見を具申した。こうして民意を把握した安場県令は、地方官会議に出席し、「農民歎苦、地租軽減セザルベカラズ」との県政運営方策を建議したが、この主張は容(い)れられず「旧貢租額の維持」を目的とする方策細目が上意下達されたのである。


明治初期の福島県令 安場保和
(郡山市市史編さん室所蔵)

 同年12月、福島県は各地の区戸長・学区取締など93人の議員を召集して、地租改正事業の出発点となる県会を開いた。各区では各村代表が集まり、事前に議事を「内議」して県会に臨んでいる。県会での決定事項は各区・各町村に持ち帰られ、土地丈量・村位地位等級・収穫米金修正・地価算定などに着手した。安積郡(区画改正で第7区となる)では、76(明治9)年1月以降に第2回区会及び各町村会が開かれ、8月までには各村田畑・宅地の等級位付(くらいづけ)が完了する。この時点での安積郡各村の田方畑方収穫等級表を第1表に示す。同年10月には第2回の地租改正県会が開かれ、それ以降の各区・各村会を経て、反当収穫による村位等級表、利子等級表、収穫・利子・地価・地位目的表が決定し、当地方の田畑・宅地の改租事業は76(明治9)年中に実質上完了したといえよう。なお現郡山市のうち、湖南地方の村々は若松県に属し、中田・西田・田村地区の村々は磐前(いわさき)県に属していたが、大筋では福島県とほぼ同様の展開で完了したと思われる。

第1表 1876(明治9)年 安積郡の各村田方畑方収穫等級表
等級 田方 畑方
収穫反当 村名 収穫反当 村名
1等 石合
1,520
郡山 石合
1,230
郡山
2等 1,420 福原 1,080 久保田
3等 1,380 駒屋、富田 1,050 福原
4等 1,350 久保田、川田 1,000 駒屋、川田
5等 1,325 片平、日和田 970 成田、富田
6等 1,293 富岡、八丁目、上伊豆、梅沢、日出山、荒井、成田 940 日出山、小原田、河内、片平
7等 1,268 野田、下伊豆、長橋、河内、下守屋 910 高倉、荒井、上伊豆、日和田、前田沢
8等 1,243 高倉、前田沢、安子ヶ島、堀ノ内、八幡、鍋山、小原田 880 八丁目、笹川、安子ヶ島、富岡、下守屋、笹原
9等 1,218 笹原、山口、笹川、早稲原 857 横塚、山口、大槻、鍋山
10等 1,197 大槻、八山田 837 下伊豆、長橋、梅沢、野田、桑野
11等 1,181 多田野、桑野、大谷、横塚 819 多田野、八幡、夏出、早稲原、堀ノ内
12等 1,165 夏出 800 八山田、大谷

(『郡山市史9』資料(中) P151による)

 しかし76年5月頃から、全国的に地租改正反対一揆が続発し、その拡大を恐れた政府は、77(明治10)年1月、地租を地価の100分の3から100分の2.5に引き下げる詔書(しょうしょ)及び民費賦課額(諸附加税)は正租の五分の一以内に限るとする布告を出さざるを得なかった。福島県(76年の若松・磐前・福島の3県を合併後)での大きな暴動はなかったが、合法的な抵抗・要求運動は各地で見られた。安積郡でも、福原・久保田・日和田・梅沢・八丁目・河内(こうず)などでは、等級付けへの不服申し立てや、県官の改組事業強行実施に反対の意思を表明している。

 田畑・宅地以外の山林・原野の地租改正は、福島県では78(明治11)年1月頃から始まり、81(明治14)年2月頃に完了したが、この際、旧来の入会(いりあい)慣行などの権利が否定され、多くが官有地に編入されてしまい、のちに官有林野(りんや)下げ戻し運動が各地で起こされることになる。

(糠澤章雄)

〔引用・参考文献〕

『郡山市史4』61~76ページ

『郡山市史9』148~158ぺージ

『本宮町史3』58~102ページ

渡辺隆喜『地租改正と地方民会』(田中彰編『近代日本の内と外』所収)

福島正夫『地租改正』

佐々木寛『地租改正』