明治の初期、自由と平等を主張して憲法制定と国会開設を要求し、さらに地租軽減、不平等条約の改正、地方自治の確立等をも掲げ、わが国政治社会体制の近代化・民主化を目指した自由民権運動は、一大国民運動に発展した。福島県(1876年、若松・磐前・福島の3県を合併して成立)は、板垣退助・植木枝盛らを出した高知県と並んで、この運動の拠点となり、多くの活動家を輩出した。
1875(明治8)年、石川区長在任中の河野広中(こうのひろなか)が、仲間と共に設立した石陽(せきよう)社をはじめ、やがて1877年相双地区に北辰(ほくしん)社、磐城地区に興風社、78年三春町に三師(さんし)社、喜多方に愛身社(あいしんしゃ)などの民権政社が次々と設立され、活発な政治活動・教育活動を展開した。これらの政社は全国組織である愛国社につながり、各政社の連合(有志盟約)も成った。1880(明治13)年3月の愛国社第4回大会は2府22県、8万7,000人の総代114人が参会し大阪で開かれたが、そこには福島県の河野広中・岡田健長(北辰社)・山口千代作(愛身社)・松本芳長(三師社)の4人も参加していた。この大会で愛国社は国会期成同盟と改称し、以後の運動は、国会開設要求が主となる。
1881(明治14)年10月には、わが国最初の政党である自由党が結成され、県内にもその支部が組織された。自由党福島部(81年12月)及び自由党会津部(82年2月)である。民権運動はますます拡がり、福島県会議員62人中、自由党系が24人、改進党系が12人を占め、野党系が58%となっていた。
1882(明治15)年2月、福島県令として薩摩人三島通庸が着任し、自由党など反政府系議員が多数を占める県会と激突する(県会議案毎号否決事件)。また三島は着任早々、会津から山形・新潟・栃木3県に通じる「会津三方(さんぽう)道路」の建設を計画し、この大土木工事の大部分の負担(費用と労役)を直接会津地方の住民に課して強行した。費用の大半は国庫下付金で賄(まかな)うと説明されていた会津地方の人々は、約束が違うと、人夫賃拠出(にんぷちんきょしゅつ)と工事服役反対運動に立ち上がり、会津自由党が中心となり、権利回復同盟を組織し、工事服役不服訴訟運動を展開した。同年10月までの同盟加入者は5,700人を超え、出訴者は耶麻郡だけで2,662人に及んだ。三島県令側は同盟幹部の逮捕に踏み切り、11月宇田成一・小島忠八・植田勇知・五十嵐武彦らが捕らえられた。これに抗議して同月28日、耶麻郡の農民数千人が集まり、河沼郡の農民も合流、喜多方郊外の塩川街道の弾正(だんじょう)ヶ原で大集会を開き、さらに喜多方警察署に押しかけ、宇田・小島らの釈放を求めた。これに抜刀した警官が切りこみ、数人を切りたおしたため、農民らは一斉に退散した。
三島県令はこの事件に凶徒聚衆罪(きょうとしゅうしゅうざい)を適用し、翌日から会津自由党のみならず、県内各地の自由党員とその同調者の一斉検挙を命じ、河野広中以下千数百人が検挙された。いわゆる福島事件である。これにより福島県の自由党は潰滅(かいめつ)したのである。
この大弾圧で検挙された民権活動家たちは、郡山地方に隣接する耶麻郡・田村郡・安達郡・石川郡・岩瀬郡に多かったが、郡山地方(安積郡)の検挙者は皆無であった。福島事件以前の政談演説会など自由民権運動に加わる人はほとんどおらず、安積郡は民権運動の空白地帯といってよい地域であった。理由は、郡山地方の有力者たちは、民権運動高揚期には安積開拓事業に没頭していたため中央政府との結びつきが強く、反政府的な運動は起こりえなかったのである。
福島事件が起こった1882年10月には安積疏水が完成し、通水式が岩倉右大臣・徳大寺宮内卿・松方大蔵卿ら多くの政府高官の参列を得て、開成山大神宮広場で挙行されている。翌83年1月に、郡山の戸長であった今泉久三郎が岩倉右大臣の秘書官山本復一に宛てた書状は、当時の郡山の有力者たちの政治姿勢を端的に表わしているので、一部を紹介しておこう。
……近来間々軽忽麁暴(きんらいままけいこつそぼう)ノ徒(と)アリテ人心(じんしん)ヲ狂惑(きょうわく)スルモノナキニアラズ、此等(これら)ノ徒ハ一身ヲ誤ルノミナラズ、終(つい)ニ国家ノ不幸ヲ来(きた)スニ立至(たちいた)ルモノ……(我等は)当時流行之党派(りゅうこうのとうは)等ニ一切加入致サズ、開拓農桑(のうそう)ノ実業ニ勉励(べんれい)スルヲ以テ目的ト仕(つかまつ)リ候(そうろう)、……近頃自由党ト称シ粗暴狂妄(そぼうきょうもう)ノ徒輩出(はいしゅつ)シ政権ニ抗スルヲ以テ民権ナリト誤認シ……当時福島県下ノ自由党員悪事ヲ密謀(みつぼう)セシヤニテ昨(さく)十二月以来、我隣郡(わがりんぐん)田村・岩瀬・安達等何(いず)レモ十名前後縛(ばく)ニ付キ、当時拘留(こうりゅう)セラレシ者百名ニ近ク、然(しか)レ共我(どもわが)安積郡ニ於ケル壱(いち)人モ彼(か)ノ自由党ニ加入セシモノ無(な)ク、為(た)メニ今般ノ災難ヲ免(まぬ)カルルニ至ル(下略)。
〔引用・参考文献〕
『福島県史11巻』解説
『郡山市史・第4巻』215~219ページ
『大系日本・福島―歴史と政治』所収「自由民権と福島事件」