1872(明治5)年6月、福島県権令(10月に県令)に赴任した安場保和(やすばやすかず)は二本松士族を救済しようと、政府の政策に沿って大槻原開墾を考えた。旧米沢藩士中條政恒を典事に招いて開墾実務担当者とし、同年10月大蔵省に開墾資金貸付願を提出した。士族対策に頭を悩ませていた政府は、開墾方法を調べて再提出せよと返答してきた。
県はまず入植者を募った。200余人も願い出たが、自力で開墾する資金を持つ者は1人もいなかった。安場は二本松へ行き、士族達に大槻原移住を勧誘したが、応募者は少数である。農家の二、三男や士族だけでは思ったほど集まらなかった。そこで中條は、郡山の商業資本をもってより大きい開墾事業に当たらせようと考え、有力商人阿部茂兵衛らと会合して大槻原開墾への出資を熱心に勧めた。商人達は当初、容易に応ずる気配はなかったが遂(つい)に同意し、25名の富商が参加して「開成社」を設立、小作人を募って開墾することとなった。県では、信夫郡や伊達郡のように桑畑を作り、養蚕業を起こす開墾を考えていたが、開成社は桑を植えるのみの開墾に満足せず、水田を開き米作りをすることを希望した。
県は中條の他県官3名を開拓掛に任命して現地を調査測量し、翌1873年4月「曠野(こうや)開墾再願書」を政府へ提出した。大槻原官有地209町8反歩余と開墾資金1万5,000円余の貸与が認められた。周辺諸村の旧名主層から数名を現地職員として採用し、事業を開始した。
4月12日、大槻原の中央にある通称離森(はなれもり)(開成山)を基点に主要道路の開さくを始めた。官有地となり入会権(いりあいけん)を奪われた農民達が開墾に反対する動きもあったが、1874年には3本の主要道と枝道や作場道、橋が完成した。当地は水が乏しいので灌漑用溜池(かんがいようためいけ)の築造工事を急ぎ、開成沼(現開成山公園グラウンド)が同年1月5日に竣工した。さらに上ノ池(現在の五十鈴湖(いすずこ))の修繕や用水路の開さくを行った(なお、左ページ「開成山墾地景況略図」に描かれている「下ノ池」は、現在の豊田貯水池である)。土木工事は県官指揮の下、多くの人民の労力と開成社員の多額の出資金や諸村有志の出資金で行われた。
大槻原は離森より南は土地が高燥(こうそう)なので畑にし、北は低湿なため水田とした。田畑共に井の字形に区画し、農道を整備した。住宅も離森を中心として南北に連ねる二大路に沿って宅地を区画し、家を建て、各戸に防風のための木を植えた。県は二本松士族移住者住宅28戸(後に4戸増す)を、開成社は小作人住宅61戸(明治11年までに41戸増す)を建築。このほか、大槻村はじめ周辺村落からの移住者が住宅を建てる場合は資金の一部を貸与した。
1873年8月、県は現地開墾事務所(32坪・旧開成館)を建設し、第10区会所としても利用した。
翌年10月、第10区会所として現開成館が建設されると開墾事務所もそこに入った。1873年10月、離森の頂上を遙拝所(ようはいじょ)の場所と定め鳥居を建て、その後社殿を建設。1876年9月伊勢神宮の御分霊をお祀(まつ)りし、「開成山大神宮」となった。