開墾着手より僅(わず)か3年余にして戸数人口とも順調に伸び、郵便局や小学校(個人宅借用)等諸施設もほぼ整い、一村落の形を成してきた。1875年の調査で、戸数157戸(建家計画中を合わせると203戸)、人口664人、新たに開墾された面積は、水田76町8反歩(開成社によるものがほとんど)、着手中1町6反歩、畑が140町6反歩(一般開墾が3分の2)、着手中21町1反歩、宅地25町3反歩、その他道路などを加え440町4反歩であった。
大槻原は藩政時代、郡山・大槻・富田・小原田4ヵ村の入会秣場(いりあいまぐさば)で村間の争論が絶えない所であった。開墾地の中にこれら4村の古い田畑が飛地のように混在している現状に、県は将来の境界争いを心配し、早急に境界を立てるべきであると考えた。そこで新開地へ4村の土地を挿入して、新村の地積を605町8反歩とし、1875(明治8)年11月に政府へ新村の名称公布を上申したところ、翌年4月8日「桑野村」と称するよう布達された。同年5月、県は桑野村新設に際し開拓に功労のあった人々を表彰した。阿部茂兵衛を筆頭に開成社社員や相楽半右衛門ら旧名主や戸長、一般村民(大槻村村民が最も多い)まで幅広く表彰を受けた。
桑野村へ移住した人々は、手持ちの資金や補助金で5、6年は何とか食いつないで荒地の開墾に励んだが、桑苗を植えての収入は微々たるものであり、貸与面積1~2反歩の人は開成社の田畑を借りて耕作した。水田からの収入は僅かで、資金が底をつくと農業だけに頼れず、貸与の土地を開墾しないで他に収入源(日雇など)を求めた。
そのような中で、1902年・1905年の冷害凶作は、何とか生活を維持していた人々をも打ちのめした。開成社の小作人を含め出入が激しく、明治の末には大部分の土地が郡山の地主や商人の手に渡った。郡内で最も貧しい小作人の村となり、中條政恒の孫、宮本百合子の小説『貧しき人々の群』の舞台の村にもなった。