明治新政府発足直後から相次ぐ士族の反乱に頭を痛め、士族授産と殖産興業に心血を注いできた内務卿大久保利通は、1876(明治9)年、明治天皇の東北巡幸の先発として桑野村を視察し、その成功に注目した。この時、中條政恒から安積原野全域の大規模開拓と猪苗代湖から水を引くことについての陳情を受けた。大久保は早速、役人を東北地方に派遣し、大規模な国営開墾事業に適した地域を調査させ、猪苗代湖の水を引けば安積地方の原野が最適地という報告を受けた。1878年3月安積郡対面原とその付近原野一帯を第一号国営開拓地に内定した。
1878(明治11)年から1885(明治18)年3月までに500戸の士族が安積・安達・岩瀬・西白河郡諸原野に入植した。県外からは、久留米・高知・鳥取士族が大量に入植、他に岡山・米沢・東京・愛媛士族等。県内では棚倉・若松・二本松士族。移住入植の事情は各士族で異なり、貸与された開拓地の面積や条件も一律ではない。久留米や高知は1戸当たり約2町5反歩と若干の山林、鳥取は平均3町6反歩余。これに対し若松は1町6反歩余、二本松・棚倉は1町歩余であった。