2 安積疏水開さく工事

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 安積地方は長年干ばつに悩まされてきた。猪苗代湖の水を引くという考えは、早くから地元の人々や須賀川の小林久敬(こばやしひさたか)ら民間人の間にあったが、費用や技術面で実現出来なかった。猪苗代湖から安積の地へどのようにして水を引いたのだろう。政府は1876年8月、福島・磐前(いわさき)・若松3県を合併させて福島県を設置し、若松県との間に障害となる水利権や境界問題を取り除き、翌年から本格的に事前調査を開始した。土木局御雇のオランダ人土木技師ファン・ドールンは、日本人技術者達が調査した資料や測量図に目を通し、計画段階から指示を与え、会津側農民の権利を侵さず、その上湖岸民の浸水被害も救済するという湖水利用計画を立てた。実施計画の細部はフランス留学から帰った山田寅吉らが行った。安積疏水は湖東岸の山潟から取水し、沼上峠に隧道(ずいどう)を掘り、出口からはそのまま大瀑布(だいばくふ)となって五百川に自然落下させ、配水路を通って原野を潤し、牛庭原(郡山市安積町)まで流す案に決定した。

 1879(明治12)年5月、疏水着工が正式決定され、10月27日開成山大神宮で内務卿伊藤博文、勧農局長松方正義を迎えて起工式を挙行した。作業は戸ノ口・布藤(ふとう)両堰の盤下げと日橋川(にっぱしがわ)十六橋改築工事から始まった。500人を超す地域住民が駆けつけ、この工事に協力した。次に山潟から田子沼・沼上隧道に至る工事、ザラメキ溜池工事、玉川堰工事、目鏡(めがね)橋工事など難工事が続いた。幹線水路延長52㎞、分水路78㎞の疏水路が1882(明治15)年8月ほぼ完成した。通水式は10月1日、岩倉右大臣・松方大蔵卿・西郷農商務卿・徳大寺宮内卿らを迎えて盛大に行われた。通水式以降も各所に残工事があり、翌年6月1日疏水工事は完成。長年の悲願であった猪苗代湖の水が安積地方の入植地の新田や古田に注がれた。延べ85万人の労力と総額61万余円もの経費を要した政府直轄事業であった。1883(明治16)年は干ばつのため各地で相当の被害が出たが、安積疏水が通水した地域の古田、新田共豊作であった。もちろん開拓地の新田の収量は反当り7斗と、古田の1石8斗余に比べ少量だが、各開墾所とも徐々に畑を水田に換えていった。


戸ノ口 十六橋水門(郷土出版社『図説郡山・田村の歴史』より)