若松士族の入植地や岩瀬・西白河郡の入植地には恵みの水は届かなかった。どの入植地も開拓して数年は、その土地の収穫での生活は無理である。まして刀を鍬に替え未経験の農作業を肥料もない荒地で行う厳しさは想像を絶した。入植者達は、強固な意志を掲げ入植地ごとに開墾社を結成、各地郷里から神社の御分霊を奉遷(ほうせん)して心の拠所(よりどころ)とした。
しかし、入植後10年経過しても満足な収入を得られない所がほとんどであった。近隣の農夫への人夫賃や肥料代などに食われ赤字が続くうち、土地を手放す者が増加した。はじめは勧業銀行から低利で借金するのだが、返済に困って地元の地主や富商から高利で借りるようになり、利子が積もって開墾地を手放す。これに凶作や水害が追い打ちをかけ、1905(明治38)年やその翌年には大量の転出者が出た。夜逃げ同然で外国へ出稼ぎに行く者もいた。残留した者も自分の拓(ひら)いた土地の小作人となって苦しい生活を強いられた。安積郡の小作地率は県内一であった。