3 公立子守学校

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 前文中に「児護」という名詞が出てくるが、これは「子守児童」のことである。明治時代の頃は、貧しい家庭の子どもたちは、「口減らし」といって他家へ「奉公働き」や「子守働き」に出され、学校に通って満足な教育を受けることはできなかった。そこで考え出されたのが公立子守学校である。

 同校は郡山町立として1901(明治34)年2月に設立され、当時の校舎は郡山駅前の陣屋跡に置かれた。同校の主任教師は松山政治で妻子と共に校舎に住み、生涯を懸けて子守生徒指導に尽くした。

 同校は1924(大正13)年の郡山の市制施行により廃止されたが、その後私立子守学校として松山夫妻の経営に移った。明治時代における公立の子守学校創設は全国的にも異例である。

(渡邉康芳)

公立子守学校(児護学校)


(参考文献)

『郡山市史4』近代上