明治政府は近代化の一環として郵便制度を取り入れ、全国均一料金での通信環境の整備に着手した。政府は各地に郵便御用取扱人を設置して郵便業務にあたらせた。郡山では、1872(明治5)年に永戸直之助が郵便御用取扱人となり、本町で業務を開始した。
これと同時に、政府は電信の整備にも取りかかり、1874年には、東京・青森間に電信線を架設した。速やかに情報を伝達できる電信の利便性が広まると、郡山でも電信の送受信所である電信分局の設置を求める動きが生まれた。
1881年に郡山の人々は明治政府に電信分局設置願を提出し、「生糸や米などの商売に電信は欠かせないが、我々が利用するには福島か白河まで出向かなければならない。人口は5,400人を数え、銀行や警察署、郡役所などが設置されているとともに、安積開拓に関わって政府の出張所や農業学校、農具製作所、農業試験所などがあって全国から人々が集まってきている」と述べ、電信が必要であることを主張した。
この願書はいったん却下されてしまうものの、政府への運動を継続し、1883年4月に、電信分局設置の許可が得られた。当時郡山村の戸長(現在の村長にあたる)をつとめていた今泉久三郎は、日記に「県庁から設置許可の連絡があり、関係者一同は安心し大喜びした」と記している。