1 水道事業

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 江戸時代の郡山村の飲料水は皿沼(さらぬま)水道や山(やま)水道であった。皿沼水道は、皿沼(現在の郡山商工会議所)から郡山の大町・中町・本町等の家に水を引いて飲料水としていた。皿沼の築造は江戸時代以前と考えられる。山水道は1768(明和5)年に造られたもので、郡山の富裕商人が清水台・赤木・虎丸辺りに井戸を掘り、そこから各自の家に引いたもので自家用として使用していた。余(あまり)水を、近所の家ではもらい水として分けてもらい使用していた。

 南川は、多田野川(休石川)の水を多田野村山田原の岩色堰(いわいろぜき)で分水した川であり、1882(明治15)年に安積疏水が完成すると、多田野村字十文字に所在する第5分水路で疏水の水を南川へ注水した。南川は、大槻村の静御前堂の南側で二手に別れ、一方は五百渕の南を流れ小原田村・日出山村の用水とした。一方は上ノ池(かみのいけ)(現五十鈴湖)・下ノ池(しものいけ)(豊田浄水場)へ入り、さらに細沼・皿沼に流れ、また酒蓋(さかぶた)池・荒池(あらいけ)へも注がれた。

 1888(明治21)年に、永戸直之介・川口半衛門等が水道会社を設立した。多田野(ただの)水道である。発起人・賛成人と出資金は第1表のとおりで、永戸直之介等は正製組(せいせいぐみ)、川口半衛門等は真製社(しんせいしゃ)を営業していた。生糸製造には光沢を出すために、良質の水が必要であることから多田野水道を引いたのである。水道は第1図のように、多田野村字清水池・木置場(きおきば)・柳河原(やなぎがわら)から、大槻村・桑野村を流し、郡山町まで引水するもので、1892年5月に完成した。

第1表 多田野水道の発起人・賛成人と出資金
出資者名 出資金 摘要
発起人 永戸直之介 650円 正製組
安藤忠助 650円 正製組
甲斐山忠左衞門 650円 正製組
柳沼恒五郎 650円 正製組
津野喜七 650円
橋本清左衞門 650円 真製社
佐藤伝兵衛 650円
川口半右衛門 650円 真製社惣代
賛成人 根本祐太郎 150円
今泉久三郎 100円
阿部茂左衞門 50円
熊田脩司 50円
宗形卯吉 50円

(明治22~25年「多田野水道に関する記録」
郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書)


第1図 多田野水道略図(郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書)

 1890(明治23)年、明治政府は水道条例を公布し、水道は市町村の設置と定めた。そのため、皿沼水道・多田野水道を郡山町に寄附せざるをえなくなり、1901年10月に皿沼水道、1892年11月に多田野水道の一切の権利・義務を譲った。

 郡山町は、町勢が拡張するにしたがって、水質の保全・衛生上の問題、軍隊の誘致上の水不足、製糸紡績会社等の工業用水の必要からくる水不足、人口増加に対する水不足、防火用水の確保等が問題となってきた。しかも、皿沼水道・多田野水道の木管(もっかん)は腐敗し、継目(つぎめ)から雨水・泥水が混流するなどの問題もあった。

 1900(明治33)年に再び町長に就任した今泉久次郎(きゅうじろう)は新水道の敷設を計り、1909年10月に工事を着手し、1912年3月に完成した。この水道は麓山の下ノ池(旧豊田浄水場)を沈殿池(ちんでんいけ)とし、多田野水道と南川の水を下ノ池に入れ、配水管を鉄管に切り替えた。

 この近代水道の完成によって皿沼水道・多田野水道は廃止され、近代上水道に統一された。