朝鮮国に対する日清両国の主導権争いは、1882(明治15)年・84年の二度にわたり京城(けいじょう)事件(壬午(じんご)事変・甲申(こうしん)事変)を引き起こし、一応の妥協として天津条約を結んでいたが、1894(明治27)年3月、朝鮮国内に起こった東学党の乱の鎮圧に失敗した朝鮮政府が、6月清国に出兵を要請、これに対抗して日本も出兵し、やがて日清間の戦争に発展する。宣戦布告は同年8月1日であるが、すでに7月25日には豊島沖(としまおき)で清国軍艦を日本海軍が攻撃し、戦争は始まっていた。同年9月明治天皇は大本営を広島の第5師団司令部に移し指揮をとった。
福島県内の最初の召集令は94年7月26日に発せられ、以後10月までに第2師団・近衛師団を主として本県から計3,791人が召集された。この内安積郡では159人、田村郡から314人が召集された(県庁文書「[日清戦役]義勇奉公録」)。師団毎の内別は第1表のとおりである。政府は軍事公債を発行し、軍資金献納(けんのう)金や義捐金(ぎえんきん)も大いに奨励した。初期の公債応募は、郡山町と安積郡を合せて179人・2,575円にのぼった。献納金は郡山町だけで、陸軍省へ566円83銭5厘(人数1,393人)、海軍省へ335円47銭(916人)に及び、義捐金は、これも郡山町だけで204円40銭が210人から寄せられた。
師団名 | 安積郡 | 田村郡 | 県合計 |
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第2師団充員総員 | 人 92 |
人 176 |
人 2,096 |
近衛師団召集総員 | 23 | 47 | 304 |
第2師団後備総員 | 44 | 91 | 1,391 |
計 | 159 | 314 | 3,791 |
(『郡山市史4』P541)
開戦と同時に第1軍の主力は朝鮮半島を北上し、94年9月平壌戦に勝利し、鴨緑江(おうりょくこう)を越え、九連城・海城を経て翌95年3月牛荘(ぎゅうそう)を占領した。第2軍の第1師団は、遼東(りょうとう)半島に上陸して旅順・大連を占領、95年1月から蓋平(がいへい)・営口(えいこう)、さらに清国陸軍最後の拠点田荘台(でんそうだい)を占領した(3月)。本県出身兵士の多くが入隊した第2師団(歩兵第四連隊)は第2軍に属し、95年1月広島を出発、2月山東(さんとう)半島の威海衛を攻め、さらに遼東半島に上陸、蒋家屯(しょうかとん)を経て朝満国境の安東・九連城・鳳凰城に転戦した。また海軍は94年9月の黄海海戦で清国北洋艦隊に大打撃を与えた。
95年3月から、下関において講和会議が開かれた。全権大使は清国側が李鴻章、日本側が伊藤博文と陸奥宗光で、4月日清講和条約が結ばれた。その要点は、①清国は朝鮮の独立を認める、②遼東半島・台湾・膨湖諸島を日本に割譲する、③清国は賠償金2億両(テール)(3億1,000万円)を支払う、等である。これに対し、ドイツ・ロシア・フランスから、②の遼東半島の返還要求があり(三国干渉)、日本は返還を認めざるをえなかったのである。この戦役での郡山地方全域からの従軍者は127人、この内戦死・戦病死者は合計30人と数えられる(各村郷土誌)。
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