2 日露戦争

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 三国干渉後、日本はロシアを仮想敵国とし軍備拡張を急いだ。これを反映して東北地方に新旅団設置の計画が持ち上った。この時郡山町からは、桜井亀太郎・今泉久三郎を総代として、新旅団を郡山町かその付近に設置してほしいとの陳情が、陸軍大臣大山巌宛てに出されている。

 大陸ではロシアとの対立が激化し、日本国内の世論は、一部に反戦・非戦論(平民新聞など)もあったが、主戦論が大勢を占めた。1904(明治37)年朝鮮をめぐるロシアとの交渉が決裂、2月4日の御前会議で対露開戦を決定し、8日日本海軍は仁川・旅順停泊中のロシア軍艦を奇襲し、戦争が始まった。宣戦布告は2月10日であった。

 日露戦争中の日本の全動員兵力は約109万人(常備兵力の5倍)と言われ、この内福島県からは1万8,442人が出征し、安積郡からは875人、田村郡全体から1,519人が出征した(現役兵を除く)。なお各町村郷土誌によって従軍者、戦死・戦病死者、廃兵者数を集計すると第2表の如くである。福島県出身兵士の多くが入隊した第2師団(仙台)の歩兵29連隊には、1904年2月5日動員令が下り、3月9日仙台出発、4月鴨緑江付近でロシア軍と対峙し、以後遼陽(りょうよう)会戦、沙河(さか)会戦を経て、翌年に入って奉天会戦にも参加した。戦争は1905年5月の日本海海戦の勝利で日本が優位に立ち、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で講和条約(ポーツマス条約)を結んだ(9月)。条約の要点は、①ロシアは日本に対し、樺太の南半分を割譲し、②朝鮮への日本の指導・管理権を認め、③日本の南満州鉄道敷設権と旅順・大連の租借権を認める、等であったが、日本国内では、ロシア側からの賠償金がないことに反対する暴動が起こった(日比谷焼打事件)。日本の兵士の死傷者は総計44万人弱といわれる。福島県からの出征兵士(現役兵を除く)は1万8,000人強、このうち戦死・戦病死者は、「軍人遺族救護金配当表」によれば計1,834人、内安積郡は93人、田村郡は162人と数えられる(『福島県史15』1021~2ページ)。

(糠澤章雄)
第2表 明治37~38 日露戦役における郡山地方の従軍者、戦死・戦病死、廃兵数
郡町村 従軍者 戦死 戦病死 廃兵者
安積郡 郡山町 220 13 15 10
各村計 359 25 11 15
田村郡各村計
(現郡山市内)
199 7 2 8
合計 778 45 28 33

(『郡山市史4』P547)


日露戦争凱旋兵士の歓迎会(『郡山市史4』P551)


明治30年代の大槻町の鼓笛隊(『郡山市史9』口絵)


(引用・参考文献〕

『福島県史15』1013~24ページ

『郡山市史4』541~550ページ

『本宮町史3』357~374ページ

『図説本宮の歴史』200~1ページ