1902(明治35)年は春から天候不順が続いていた。特に7、8月は低温日照不足で、冷害凶作が憂慮(ゆうりょ)されていたところに、9月28日大型台風が襲来し、大暴風雨で神社や寺院の大木は根こそぎ抜かれ、住家や学校は壊され大洪水となり、橋梁(きょうりょう)も道路も寸断された。安積郡内の被害は死傷者26人、全半壊住家590棟、破損2,474棟、その他の家屋全半壊339棟、破損4,480棟。郡山第二尋常高等小学校(現芳山小学校)は屋根の大部分が吹き飛ばされ一部教室の天井が落ち、約2週間郡山第一尋常高等小学校(現金透小学校)にて3時間授業を実施した。その第一尋常高等小学校も200坪が半壊し、復旧費に800円を要した。
農作物の被害は深刻で、県内の1割が収穫皆無田畑となり、米収は前年に比べ5割4分減、安積郡では2,329人所有の1,132町歩余が収穫皆無で、大小豆や葉煙草など他の農作物も大減収であった。直接被害を受けた農民のみならず、一般の中流に近い人々も生活難となり、少量の米を粉や粥(かゆ)にし種々のものを混ぜて飢えをしのいだ。安積郡で「現に飢餓が迫る者」―290戸、男458人、女老幼1,046人。「3ヵ月後飢餓が迫らんとする者」―1,060戸、男1,622人、女老幼4,051人。郡内の戸数の15.7%、人口の12.3%に及んだ。
県は直ちに被害状況を調査し、救済活動を開始した。安積郡の受給者数―住家を失った者に小屋掛料、481戸。飢餓に苦しむ者に玄米又は白米等を支給、延べ7万5,540人。就業の道なき者に就業費支給、452戸。道路修繕や治水堤防工事を行い、賃金を支払うことで生活費の足しにさせた。その他県税の免除や農作物種子購入費の補助金を支給。恩賜金(おんしきん)や全国各地から寄せられた義援金・救援物資を配り、外国米の廉価(れんか)販売を行った。県は凶作に対し窮民救済基金を設ける必要を感じ、現金その他で3万922円余を積立てた。(1904年3月現在)
郡山町は労働に従事できない人々に対し、食料を与えて飢餓を免れさせた。資金は町費や有志寄付金及び町有籾150石の売却代を充てた。
三代村は一村独自の「三代村窮民救済方法」を村会で議決した。救済委員が窮民の実況を査定し、村長の承認を受けて飯米や就業の資金を無利子で貸し付けた。救済資金は村内有志の寄付金や村への義援金・村債を充てた。勤勉や節倹・貯蓄を督励した。