2 明治三十八年の大凶作

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 1905(明治38)年は江戸時代の天明、天保以来の大凶作に見舞われた。7月21日以降気温が急激に下がり、連日霧のような細雨が降り、210日(9月1日)が過ぎても出穂を見なかった。

 安積郡の米作被害は作付面積に対し、収穫皆無率が8割を超えた。平年に比した減収歩合は郡山町が反当たり1石8斗に対し1斗6升9合と9割以上の減、多田野村は1石3斗5升に対し4升5合で9割7分弱の減となった。

1905(明治38)年安積地方各町村別米作収穫表
町村名 一反歩収穫高
明治38年 平年 歩合
 
郡山町

169

1,800

9.3
小原田村 339 1,800 18.8
永盛村 367 1,800 20.3
豊田村 347 1,800 19.2
穂積村 102 1,800 5.6
三和村 51 1,570 3.2
多田野村 45 1,350 3.3
大槻村 212 1,350 15.7
桑野村 241 1,350 17.8
富田村 471 1,350 34.8
片平村 525 1,570 33.4
河内村 262 1,350 19.4
丸守村 169 1,350 12.5
喜久田村 315 1,350 23.3
山野井村 364 1,800 20.2
富久山村 338 1,800 18.7

(『明治38年福島県凶荒誌』)

 日露戦争後日本中が民力困憊(こんぱい)の極みにあった中での大凶作で、日雇い労働者や小農などは自活の道を失い、その日の糧(かて)にも事欠く者が溢(あふ)れた。安積郡の生活困難者―直接救助者が2,898戸、1万432人。生業扶助者が4,902戸、2万147人。安積郡の窮民状況―その時期に着る服がなき者421戸、1,968人。寝具なき者341戸、1,527人。食器以外の器なき者389戸、1,895人。穀物以外の食料(草根や木実)を食す者70戸、346人。

 県は1905(明治38)年、翌1906年と県債を発行し、救済事業に乗り出した。耕地整理や排水事業・桑園の造成・郡市町村道路や治水堤防の補修・種穀料給与・町村教育費貸付等を実施した。山間地では、県道を改修し国有林の払い下げを受け、製炭業に従事させた。各村でも、復旧土木工事に従事させる他、飢餓に備えていた蓄穀米を貸与した。大槻村では、大凶作を受けて1906年、備蓄を米穀と金銭の2本建に改正し、村基本財産に救荒予備積立金を設け運用した。

 1905年の凶作にはアメリカ始め諸外国からも多くの義援金や救済物資が届けられ、困窮者に支給された。しかしこれらの救済策では追いつかず、収入を失った農民達は借金を重ねて自作農から小作農へ転落していった。安積郡は周辺郡より小作地化の進展が著しい。北海道移住や外国への移民が続出。欠席児童や授業料滞納者の増加、税収不足で町村財政は厳しくなり、教員給与支払いも延滞した。