大正時代の思想界に大きな影響を与えたのは民本主義(吉野作造が提唱した「主権は天皇にあるが、政治は民意にもとづく政党や議会を中心に行なうべきだ」とする思想)である。この思想の影響は次第に教育界にも波及し、教育の自由化を認め、あるいは促進する結果になった。しかし、政府はこうした動きに対し政治体制の危機を感じ、それを乗り切るために国家中心の教育をもって対決した。それは1917(大正6)年に開かれた臨時教育会議である。この会議で特に注目されるのは、小学校から大学まで一貫して国家主義が強調され、特に民本主義に対処した教育政策で戦後の教育に至るまでの基本政策をなしたと言われている。
さて、大正時代の小学校は尋常科6年・高等科2年制で構成され、義務教育は尋常科のみであった。学齢児童の尋常科の就学率は、県の政策をはじめ父兄の理解と協力から大きく向上し、農村地帯でも90~100%であった。一方で高等科は、当時の社会経済が不景気であったせいか、男子の就学率は上昇傾向にあったが、女子は非常に低かった。また、形式上就学率が高い反面、中途退学児や子守児童の問題など、教育効果の上で大きな欠陥となる、解決しなければならない課題もあった。
大正期の郡山町は急速に都市化し、人口の増加に伴い児童の就学率も高くなった。これにより小学校の新設を余儀なくされ、1920(大正9)年4月には郡山第三小学校(現在の橘小学校)が新設された。同校の児童数は開校当時778名であったが、6年後の1926(大正15)年には2,337名となり、学級数36・教師42名の、町内最大の小学校となった。