大正デモクラシーの教育思想により、国語教育の中では「生活綴り方」教育が展開され、子供の考えを重視する教育が行われた。しかし、日中戦争が開始され、戦闘が激しくなる1940(昭和15)年頃になると、政府はそのような教育は国策を侵害するとして弾圧を加えるようになった。
1941(昭和16)年、国民学校令が公布され、それまでの小学校が国民学校と改名された。国民学校の目標は、「皇国(こうこく)日本を目指す国体の錬成(れんせい)にあり、戦争を切り抜けるための教育政策理念を目指した」ものであったとみられる。教科は国民科(修身・国語・国史・地理)・理数科(算術・理科)・体錬科(武道・体操)・芸能科(音楽・習字・図画・工作等)に統合された。
1941年12月8日、日本は太平洋戦争に突入した。当初は戦局を優位に進めていたが、1943(昭和18)年2月のガダルカナル島の敗退後は日本にとって悲惨(ひさん)な戦いとなった。あらゆる資源の少ない日本は「欲しがりません勝つまでは」「一億総玉砕(ぎょくさい)」等のスローガンを掲げ奮闘した。
政府は「学童の縁故疎開促進」要項を発表し、強力に学童の疎開を促進させた。その中で特に大きな問題となったのは集団疎開である。学童の集団疎開は国の強制的な施策で受入地に押し付けられた。安積郡では、1944(昭和19)年8月、東京の日暮里より熱海町へ、国民学校の3年から6年までの学童800名が集団疎開した。学童は栄楽館など9旅館に分宿し、熱海国民学校で授業を受けている。受け入れた旅館にとって、学童の世話はかなり大変だったようである。
他にも政府は、時局対応の教育政策を次々に出してきた。1944(昭和19)年に予定していた初等科6年、高等科2年の8年を義務教育年限とする「義務教育8年制」の延期、「学徒勤労動員令」、「学校報国隊の学徒勤労令」、国民学校高等科をはじめ中学校・女学校に至るまで軍需工場や食料増産に動員するための「農村動員令」等の公布である。
「農村動員令」による動員については、安積高等学校の年表によると、次のように記録されている。
「昭和一四・六・二三 食料増産労力奉仕作業出勤」
「昭和一九・五・四 通年勤労動員に出勤開始」
この記録にある出勤は、記載された年月日だけではなく、それ以後も継続的に実施されている。また、記録はないが、女学校も同様の勤労動員がなされている。そのことは1945(昭和20)年4月12日の郡山空襲による動員学生の犠牲者記録で明らかである。
(参考文献)
『郡山市史5』近代下