江戸時代には土地の売買は禁止されていたため、土地は質物として借金の担保にあてられた。借金を返済できないと質流れになり、土地は借主から賃主へ移った。そのため、借主は小作人、貸主は地主となり、小作人は地主から土地を借りて耕作し、地主に小作料を支払った。
明治になると地主・小作関係は急速に展開した。明治政府は、1868(明治元)年に土地私有を公認し、1872年には田畑永代売買の禁を解き土地の売買を自由とした。さらに、秩禄処分(ちつろくしょぶん)・地租改正(ちそかいせい)により土地私有権が保証され、明治10年代ころから急速に土地の売買が進み、土地集積が進められていった。
地主は小作人から高率の小作料を徴収し、地租(税)との差額を蓄積していった。さらに、高利貸を営みながら一層の土地集積を進め、大地主・寄生地主に成長した。大地主は土地集積する一方で、蓄積した資金で製糸工場等を設立していったのである。
このころの農家は、その田畑の所有形態から、自分の田畑を所有する自作農、田畑を借地して地主へ小作料を納める小作農、自分の耕地を所有しながら地主から田畑を借りて小作料を払う自小作農に分類できる。自作農は凶作や冷害等によって家計を圧迫すると田畑を売り払った。土地を手放した農民は小作料を納める小作人となり、また一部は町へ出て賃金労働者となったのである。自作地・小作地の農業だけで生活できない貧農層は、子女を女工として働かせ、二・三男は奉公人や出稼ぎに出して家計を補充した。
安積郡全体の自作農・小作農の耕作反別を見ると第1表のようである。1885年の自作地(田・畑)は5,914町歩であったが、1887年に6,710町歩となり、その後一時減少するが、1892年から再び増加し、1895年に6,801町歩とピークを迎え、1897年に6,358町歩、1901年に6,109町歩、1912年に5,643町歩と減少傾向を示している。これ対し、小作地は、1885年に1,205町歩であったが、1892年には1,793町、1896年には2,376町歩と次第に増加し、1901年には4,031町歩、1912年には5,341町歩と急増している。
年度 | 自作地 | 小作地 | 合計 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
田 | 畑 | 小計 | 田 | 畑 | 小計 | ||
1885(明治18) |
町 3,812 |
町 2,102 |
町 5,914 |
町 832 |
町 372 |
町 1,205 |
町 7,119 |
1886(明治19) | 3,629 | 3,077 | 6,706 | 957 | 511 | 1,469 | 8,175 |
1887(明治20) | 3,632 | 3,077 | 6,710 | 1,113 | 512 | 1,625 | 8,335 |
1888(明治21) | 4,025 | 2,361 | 6,387 | 951 | 528 | 1,479 | 7,866 |
1889(明治22) | 3,796 | 2,361 | 6,157 | 1,033 | 558 | 1,591 | 7,749 |
1890(明治23) | 3,874 | 2,636 | 6,511 | 1,111 | 625 | 1,736 | 8,247 |
1891(明治24) | 3,612 | 2,691 | 6,303 | 1,385 | 568 | 1,953 | 8,257 |
1892(明治25) | 3,880 | 2,858 | 6,739 | 1,197 | 596 | 1,793 | 8,532 |
1893(明治26) | 3,887 | 2,879 | 6,767 | 1,192 | 599 | 1,792 | 8,559 |
1894(明治27) | 3,885 | 2,878 | 6,764 | 1,196 | 606 | 1,803 | 8,567 |
1895(明治28) | 3,903 | 2,897 | 6,801 | 1,198 | 615 | 1,814 | 8,615 |
1896(明治29) | 3,838 | 2,346 | 6,185 | 1,640 | 735 | 2,376 | 8,561 |
1897(明治30) | 3,894 | 2,456 | 6,358 | 1,580 | 793 | 2,373 | 8,731 |
1898(明治31) | 4,126 | 2,324 | 6,450 | 1,716 | 696 | 2,413 | 8,864 |
1899(明治32) | 3,926 | 2,245 | 6,172 | 1,998 | 822 | 2,821 | 8,993 |
1901(明治34) | 3,846 | 2,262 | 6,109 | 3,037 | 994 | 4,031 | 10,140 |
1909(明治42) | 2,988 | 2,080 | 5,072 | 3,725 | 1,458 | 5,188 | 10,261 |
1912(大正元) | 3,146 | 2,489 | 5,643 | 3,746 | 1,587 | 5,341 | 10,984 |
※田畑の小計等が合わないのは、「町」の下の単位(反畝歩等)が省略されているためと考えられる。(『郡山市史9』資料(中)統計篇P46)
安積郡の町村の自作農・小作農を見ると第2表のようである。自作農が多い村は、小原田村・丸守村・山野井村・富久山村であるのに対し、郡山町・豊田村・多田野村・大槻村・桑野村・富田村・片平村・喜久田村等は小作人が多い。
町村名 | 自作 | 自小作 | 小作 | 合計 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
専業 | 兼業 | 専業 | 兼業 | 専業 | 兼業 | ||
郡山町 |
戸 5 |
戸 10 |
戸 74 |
戸 53 |
戸 127 |
戸 106 |
戸 375 |
小原田村 | 171 | 34 | - | - | 31 | 40 | 276 |
永盛村 | 96 | 20 | 82 | 28 | 38 | 39 | 303 |
豊田村 | 51 | 7 | 86 | 7 | 70 | 13 | 234 |
穂積村 | 45 | 10 | 108 | 10 | 33 | 6 | 212 |
三和村 | 71 | 13 | 93 | 7 | 49 | 5 | 238 |
多田野村 | 76 | 13 | 102 | 5 | 82 | 6 | 284 |
大槻村 | 62 | 13 | 150 | 15 | 95 | 11 | 346 |
桑野村 | 23 | 27 | 21 | 2 | 119 | 54 | 246 |
富田村 | 64 | 14 | 76 | 7 | 87 | 3 | 251 |
片平村 | 66 | 23 | 114 | 13 | 72 | 1 | 289 |
河内村 | 78 | 14 | 39 | 2 | 47 | 5 | 185 |
丸守村 | 128 | 26 | 109 | 12 | 83 | 4 | 362 |
喜久田村 | 114 | 15 | 100 | 2 | 128 | 2 | 361 |
山野井村 | 141 | 42 | 136 | 16 | 87 | 69 | 491 |
富久山村 | 109 | 32 | 117 | 12 | 40 | 13 | 323 |
月形村 | 12 | 161 | - | 78 | - | - | 251 |
中野村 | 6 | 59 | 26 | 17 | - | - | 108 |
三代村 | 55 | 18 | 4 | 19 | - | - | 96 |
福良村 | 48 | 58 | 93 | 54 | 17 | 23 | 293 |
赤津村 | 60 | 31 | 7 | 17 | - | - | 115 |
合計 | 1,481 | 640 | 1,537 | 376 | 1,205 | 400 | 5,639 |
(『郡山市史9』資料(中)統計篇P45)
郡山町の自作農と小作農は第3表のとおりで、自作農は1900年には146軒であったのが、1901年に142軒と微減するが、1907年には34軒、1911年には36軒と急激に減少している。自作農が急激な減少したのは、土地を手放し小作人や工場の賃金労働者となった人々が多かったのが理由であろう。小作農は1900年には221軒であったのが、翌年に233軒と増えるが、1907年には198軒、1911年には197軒と減少している。自作農の急減に対し、小作農も減少はしているものの微減である。小作農は工場の賃金労働者となるか、親は小作農を営みながら二・三男や子女は年季奉公や紡績工場等で働いているものと考えられる。
年度 | 自作 | 小作 | 合計 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
専業 | 兼業 | 小計 | 専業 | 兼業 | 小計 | ||
1900(明治33) |
戸 80 |
戸 66 |
戸 146 |
戸 122 |
戸 99 |
戸 221 |
戸 367 |
1901(明治34) | 79 | 63 | 142 | 127 | 106 | 233 | 375 |
1902(明治35) | 79 | 63 | 142 | 127 | 106 | 233 | 375 |
1903(明治36) | 79 | 63 | 142 | 127 | 106 | 233 | 375 |
1907(明治40) | 27 | 7 | 34 | 125 | 73 | 198 | 232 |
1908(明治41) | 28 | 7 | 35 | 123 | 75 | 198 | 233 |
1909(明治42) | 28 | 7 | 35 | 123 | 75 | 198 | 233 |
1910(明治43) | 26 | 8 | 34 | 121 | 77 | 198 | 232 |
1911(明治44) | 25 | 11 | 36 | 122 | 75 | 197 | 233 |
(『郡山市史9』資料(中)統計篇P57)
郡山町には橋本万右衛門を始め、橋本啓助・佐藤伝兵衛・武田重蔵・佐藤伝吉・根本祐太郎・高田熊吉・甲斐山忠左衞門・斎藤久之丞・津野喜七・柳沼恒五郎などの地主がいた。永盛村には今泉要之介・佐藤松五郎、豊田村には古川粂太郎、穂積村には大野乙市・尾形要、大槻村には岡部文四郎・前林一介、山野井村には小野口仁蔵・石沢彦松などがいる。中でも橋本万右衛門の小作地は、安積郡では郡山・小原田・永盛・富久山・山野井・豊田・穂積・三和・大槻・桑野・富田・片平・河内・丸守・喜久田・多田野・中野の17ヵ村、他にも安達郡には6ヵ村、田村郡・石城郡には3ヵ村ずつ、岩瀬郡・伊達郡には2ヵ村、石川郡に1ヵ村に及んでいる。
1907年(明治40)年には、福島県に地主会が設立され、各郡にも地主会が設けられた。安積郡地主会は、これに先立つ1905年8月に設立した。地主会は、田畑地価2,000円以上若しくは田畑10町歩以上所有する地主たちで構成された。会長は橋本万右衛門とし、その構成員は第4表のとおりであった。地主会の目的は、地主と小作の関係を親密にし、小作人を保護奨励して、農事の改良を計り、相互の利益をまっとうすることなどである。そのため次の事を履行した。「農産の改良」「勤勉貯蓄の奨励」。「順良小作人の奨励方法を設ける」「小作料に関すること」「凶作における小作米処置法に関すること」「凶荒予備に関すること」「施肥の取締まりに関すること」「その他必要な事項」などである。
町村名 | 会員名 |
---|---|
郡山町 | 橋本万右衛門・橋本啓助・国分捨蔵・佐藤伝兵衛 |
武田重蔵・佐藤伝吉・熊田修司・根本祐太郎 | |
阿部孔三・薄井鉄治・伊東仁右衛門・阿部茂吉 | |
菊地久之助・鈴木惣兵衛・阿部精吉・鴫原弥作 | |
安藤清兵衛・丹羽永徳・甲斐山忠左衞門・渡辺惣吉 | |
安藤忠助・斎藤源吉・横田治右衛門・高田熊吉 | |
磐田源吉・斎藤久之丞・安藤五平・橋本藤左衞門 | |
安藤久兵衛・遠藤清三郎・阿部彦蔵・津野喜七 | |
柳沼恒五郎・遠藤弥三次・横山熊吉・開成社 | |
鈴木栄治・永戸直之介 | |
永盛村 | 今泉要之介・佐藤松五郎 |
豊田村 | 古川粂太郎 |
穂積村 | 大野乙市・尾形要 |
大槻村 | 岡部文四郎・前林一介・国分才治・岡部直之助 |
岡部惣助・相楽留八郎 | |
河内村 | 伊藤長右衛門 |
山野井村 | 小野口仁蔵・続橋忠作・中村定之助・石沢彦松 |
矢吹孫四郎・和高秀良・市川重左衞門・藤橋卯之太 | |
伊藤市左衞門 | |
岩江村 | 橋本善六郎 |
福島市 | 青木金次 |
(『郡山市史4』近代(上)P361)
(参考文献)
『郡山市史4』近代(上)