69 大正デモクラシーと米騒動

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 憲政擁護運動(第一次)が全国的に高揚(こうよう)し、藩閥政府の典型とされた桂太郎内閣(第三次)は、1913(大正2)年2月、多数の群集が議会を包囲する中で倒れた。いわゆる大正政変である。これが大正デモクラシーと称される民主主義運動の始まりで、商工業者・知識人・ジャーナリスト・労働者が、護憲・閥族(ばつぞく)打破・民本主義・廃税要求等の諸運動を展開、さらに米騒動を経て、普通選挙運動が大きく広がっていく。

 1914年7月から始まる第一次世界大戦に、日本は日英同盟の関係から参戦、青島(チンタオ)を占領して山東半島のドイツ租借地と利権を接収、次いでドイツ領南洋諸島も占領した。日本側の犠牲は少なく国民は戦勝気分に沸いた。ヨーロッパ列強の生産ストップと輸出減退により、日本経済は初期の不況を克服し、輸出が急増し空前の好況を呈(てい)した(大戦景気)。郡山町では、1916(大正5)年以降20年までに、会社・工場の新設が相次いだ。小口組郡山製糸所・郡山電気(株)・東洋曹達(ソーダ)郡山工場・大日本紡織(株)・名古屋紡績郡山絹糸工場・日本電気製鉄郡山工場・郡山製作所・片倉製糸紡績(株)岩代紡績所等々である。これに伴い、郡山町の人口は1902(明治35)年から米騒動の起こる1918(大正7)年までの間に、本籍人口で54%、現住人口で77%も増加した(第1表参照)。増加した人々の多くは工場や建設現場で働く労働者で、第2表のように、1911(明治44)年に比して、18(大正7)年に職工数で3.58倍、日傭人夫(ひやといにんぷ)で2.23倍となった。

第1表 大正期の郡山町の人口増加
年次 本籍
人口
現住人口
合計
 
1902(明治35)

10,394

7,378

6,756

14,134
1912(明治45) 14,306 9,843 11,142 20,985
1913(大正2) 14,654 10,239 11,547 21,786
1914(大正3) 14,997 10,524 11,980 22,504
1915(大正4) 15,400 10,625 12,277 22,902
1916(大正5) 15,694 10,887 12,461 23,348
1917(大正6) 16,046 10,897 13,048 23,945
1918(大正7) 16,075 11,963 13,065 25,028
1919(大正8) 16,332 11,717 13,595 25,312
1920(大正9) 16,794 12,246 13,941 26,187
1921(大正10) 17,976 13,264 14,877 28,141

(『郡山市史5』P96)

第2表  大正期の安積郡の職工数および日傭人夫数
年次 職工数 日傭人夫
 
1911(明治44)

816

47
1912(大正元) 1,166 20
1913(大正2) 1,163 52
1914(大正3) 1,339 39
1915(大正4) 1,031 33
1916(大正5) 1,833 75
1917(大正6) 2,377 89
1918(大正7) 2,923 105
1919(大正8) 3,166 211
1920(大正9) 3,328 244
1921(大正10) 3,558 141
1922(大正11) 4,085 354

(『郡山市史5』P108)

 大戦景気は、海運・造船・製鉄・鉱業・紡績・銀行などの巨大資本に、莫大な利益をもたらしたが、反面著しい物価騰貴(とうき)を促し、勤労大衆の生活を圧迫した。特に米価は、都市生活者(勤労者)増加による需要拡大、輸入外来の減少、シベリア出兵(ロシア革命干渉戦争)を見越した大商人の買い占めなどで暴騰(ぼうとう)した。当時の『福島民報』ほかによれば、福島市の白米(特等米)1升の値段は、1918年7月21日36銭、同31日39銭5厘、8月5日42銭5厘、同6日には43銭5厘となった。郡山町でも、渡辺伝吾『備忘録』によると、「7月26日米価大暴騰、……(白米)1升36銭なり」とあり、福島市に近い高騰だったと思われる。8月上旬頃の郡山町の職工質金(男工)は、「多くて八十乃至九十銭、少くて三十五、六銭より四十銭内外」と『民友新聞』(8月14日付)は報じている。

 1918(大正7)年8月3日、富山県魚津町の漁夫の女房たちが起こした米移出反対、安売り要求の行動は、『大阪朝日新聞』によって全国に報道され、たちまち騒動は広がり、以後50日間にわたり1道3府37県で米騒動が展開した。福島県では8月13日の福島市の騒動に始まり、約40日間、27市町村・2炭鉱で起こった。郡山町でも8月14日朝から「不穏(ふおん)の形勢」が見られ、町役場・警察署・郡役所と米穀業者が「細民」救済方法を協議し、米廉売(れんばい)を開始したが、8月17日夜、ついに騒動が起こった。『民友新聞』は次のように報じている(8月20日付)。


郡山騒擾を伝える新聞記事(『民友新聞』大7.8.20)

 △郡山騒擾(そうじょう) 十七日夜九時頃より十時頃に掛け、町内を散歩せし連中が期せずして麓山(はやま)公園及び八幡神社境内に集まり、其数約千人に達せるが、麓山に群集せる一団は裁判所前に勢揃ひを為し、誰云(い)ふとなく米屋を打潰(つぶ)せと口々に叫び……(小伊勢屋、田中屋、浅屋等に乱入、暴行を加え、会田警察署長の説得に一度退散したが、再び集合して野田屋に向ったところ、そこには米一升二十銭の貼紙がしてあって、襲撃を免れた。)一方八幡神社に集合せる群衆は本町に伊勢屋を打潰せと向ひたるも、既に(多数の警官たちが)各処とも厳重に警戒したる為事無きを得たり。

 集まった群衆は、大工・左官らの職人に商店員・日傭人夫・小市民らで、これに勤め帰りの工場労働者も加わったという。麓山の集会は「米価引下げ要求」の町民大会として始まり、初め500人余り、夜が更けるにつれて数を増し、大騒動となっていった。当初の町民大会は、町会議員陣野捨蔵が提唱、組織したと言われる。騒動に対して80余名の巡査が鎮圧に当たり、陣野ほか30余名を拘引した(『民友新聞』8月21日付)。


米価下げ要求の町民大会が開かれた麓山公園


郡山騒擾拘引者の記事(『民友新聞』大7.8.21)

 米騒動の社会的影響は大きく、郡山地方でも、市民・労働者の自覚的な動きが目立ってくる。郡山町議会の県税戸数割等級の是正問題(1918年~)は、そうした市民運動が背景にあって起こった。また労働者・農民の組織化や無産政党支部結成の動きが具体化していくのである。

(糠澤章雄)

大正時代の郡山町の街路風景(『郡山市史5』口絵)


(引用・参考文献〕

『郡山市史5』95~131ページ

糠沢章雄『民主主義のいしずえ―福島県民衆運動史(戦前)―』44~56ページ

『図説本宮の歴史』212~215ページ