米騒動後、普通選挙運動は、その他の種々の政治社会運動と絡み合いながら高揚した。1919(大正8)年5月、原敬内閣(政友会)の時、衆議院選挙法が改正され、選挙資格の納税要件を直接国税10円以上を3円以上とし、有権者は150万人から330万人に増えたが、普通選挙にはまだ遠かった。
福島県では同年12月、福島市で普選期成演説会が開かれ、中央から招かれた山田忠正(立憲青年党)・賀川豊彦(当時『時事新報』記者)や地元の安田覚治(青年改造連盟)・末木彰(同)・大内匡(ただす)(弁護士)らが熱弁をふるった。20(大正9)年6月20日、郡山町でも安積普選団主催で普選大会が行われた。まず共楽座で演説会を催し、河野広中・三木武吉・頼母木桂吉らの演説のあと、麓山公園に移動して大会を開き、(1)普通選挙の即時断行(2)現内閣(原敬)の秕政(ひせい)を糾弾(きゅうだん)し即時その倒壊を期す、との決議を採択し、臨時帝国議会に代表委員を上京させ、請願書を提出することを決めた。中心となって動いたのは、安積自治協和会の菅家喜六・原孝吉・宮島太蔵・横井八十吉らの青年有志であった。
翌21(大正10)年1月、県下普選大会(第2回)が郡山で開かれ、安積自治協和会から多数のメンバーが参加し、憲政会と密接な連携をとりつつ運動を大いに盛り上げた。さらに22(大正11)年1月の県下第3回普選大会の際には、2月の帝国議会へ普選案上程を期して編制された中央運動組織へ、安積自治協和会から30人の幹事を派遣することを決めている。なおこの年治安警察法の一部改正で、婦人の政治集会参加が認められ、7月に郡山みどり座で行われた演説会に20~30人の婦人の傍聴者(ぼうちょうしゃ)があったという。
24(大正13)年には、護憲三派(憲政会・革新倶楽部・立憲政友会)による清浦内閣打倒の動きが活発となり、関連して、憲政擁護・政党内閣実現・普選断行要求等の運動(第二次護憲運動)が盛り上った。郡山でも1月、安積自治協和会の連合総会が開かれ、「清浦内閣を打倒し、政党内閣実現を期す」ことを決議し、運動は高揚した。こうした中で、第15回衆議院総選挙が行われ、護憲三派が大勝し、6月清浦内閣は総辞職、加藤高明(護憲三派)内閣が誕生した。かくしてこの年暮から開かれた通常議会に普選案が出され、翌25(大正14)年3月、国民多年の念願であった普通選挙法が可決したのである(5月公布)。ただし、これと同時に、あらゆる労農社会運動・民主主義運動を圧殺していくことになる治安維持法が公布されたことは、大正デモクラシー運動の限界を明確に示していたのである。
ところで郡山地方の普選運動の特徴は、地域住民の様々な要求と結びついて展開したことである。水郡鉄道の早期敷設要求、安積疏水利用の民主化要求、公会堂建設への県費補助申請をめぐる対立、上水道拡張工事費の県費補助への対応、市道・郡道の県道編入の申請、電話抽選をめぐる不正の追及、水害防止のための逢瀬川・笹原川等の県費支弁改修要求等々の動きは、全国的な普通選挙運動と何らかのつながりをもって推し進められたのである。一方、労農社会運動も、米騒動以後大きく進展する。郡山地方でも、労農大衆の自覚的な運動が見られるようになる。東洋曹達(株)郡山工場の煙害被害に関する農民騒動(1918年9~10月)、岩代紡績(株)の男女職工350人の賃上げ要求スト(1919年7月)、高川村(現熱海町)の第2発電所工夫らが賃金不払に抗議して不穏(1920年9月)、郡山専売局職員1,300人による消費組合斉生会の結成(同年12月)、郡山町借家人同盟会が組織される(1921年9月)、小原田村民が郡山町との合併をめぐり有産者と無産者の対立(1923年4月)、郡山町周辺の農村で小作契約更新に際し小作逃避の動き続発(同年11月)等々である。こうした動きを背景に、1924(大正13)年2月、郡山電気(株)の従業員が、郡山電気従業員労働組合を結成した(日本労働総同盟に加盟)。この組合は間もなく、組合長田中利勝・執行委員渡辺次郎が解雇され、最初の労働争議を体験する。翌25(大正14)年5月1日、同組合(郡山労働組合と改称)が中心となり、東北初のメーデーの集会(郡山駅前広場)とデモ行進が挙行された。これには郡山だけでなく、県内の主要な労農団体の代表も加わり、総勢200人余りのデモとなった。デモ行進のあと、郡山労働組合事務所で協議会が開かれ、県下無産階級諸団体の共闘と連絡会の設置を申し合せた。普選運動に当初は熱心でなかった労農団体が、ようやく普通選挙法実施に向け、無産政党結成に動き始めることになる。
(引用・参考文献〕
『郡山市史5』122~131ページ、215~232ページ
糠澤章雄『民主主義のいしずえ―福島県民衆運動史(戦前)―』58~116ページ
仲村哲郎「大正デモクラシー期の一視点」(『福島史学研究』復刊9号所収)