2 群峰吟社(ぐんぽうぎんしゃ)と郡山の俳人たち 

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 1898(明治31)年に郡山で結成された俳句結社が群峰吟社である。永井破笛(ながいはてき)が中心となり、湯浅十框(ゆあさじっきょう)・国分虎風(こくぶんこふう)が発起人に名を連ねた。

 永井破笛(英次郎)は、酒造、麹(こうじ)製造業を代々営む家に生まれた。正岡子規が担当していた新聞「日本」の俳句欄に父松華(しょうか)とともに度々投句し、書簡を通じて親交があった。破笛という俳号も、子規から贈られたものである。また、自ら新聞「岩磐時報(がんばんじほう)」を発刊し、俳句欄を設けては同人たちの句を発表した。

 湯浅十框(為之進)は山口県に生まれた。東京で医学を学んだ後に、当時の東北本線終点であった郡山の発展性に関心を持ち、寿泉堂病院を開業する。新傾向俳句を打ち出した河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)と親交が厚く、碧梧桐も十框宅や群峰吟社の句会に訪れている。

 国分虎風(虎吉)は地方政治家である。安積疏水議員・郡山市議会議員・福島県議会議長を務めた。

 そのほか群峰吟社には、今泉女子専門学校の創立者今泉桐舎(いまいずみとうしゃ)(丈助)や、安積中学校教頭の西村雪人(にしむらせつじん)など多くの人々が参加しており、中学時代の久米正雄もその一人である。また、碧梧桐以外にも高浜虚子や内藤鳴雪(ないとうめいせつ)など全国の俳人たちも来訪しては句会を催した。

 隆盛を誇った群峰吟社もやがて規模が縮小し、自然解散してしまう。これを復活させたのが、十框の子息湯浅独活樹(ゆあさどっかつじゅ)(大太郎)である。この第二次群峰は、国分蘇人(こくぶんそじん)(正次)、矢部榾郎(やべほたろう)(保太郎)などが参加し、戦時中まで続いた。