大正末の郡山の金融は、橋本銀行・郡山銀行・郡山商業銀行と、安田銀行・二本松銀行・本宮銀行・第百七銀行の各支店が支えていた。
金融恐慌が発生した翌年の1928(昭和3)年、この7行のうち橋本銀行・郡山銀行・本宮銀行の3行が合併し、郡山合同銀行が設立された。
一方、第百七銀行は同年末に休業となった。これは、日本全体を覆う金融恐慌のあおりを受けての結果ではあるが、破綻(はたん)を回避できなかった背景として、政党間の対立状況を挙げることができる。第百七銀行は福島の資産家吉野周太郎が頭取を務めており、吉野が属する政友会系の銀行であった。一方、郡山合同銀行の頭取橋本万右衛門は民政党である。
金融恐慌が始まった折、民政党系の『福島毎日新聞』は、政友会系の第百七銀行の経営不振を書き立てた。政友会系の『福島民報』・『福島民友』はこれに反論し、その結果、両行の信用を互いに傷つけ合う事態となった。金融恐慌に対処するために、銀行を合併させる県下銀行大合同案も存在したが、銀行間の対立が激化している中では現実のものとならず、第百七銀行は休業に追い込まれてしまったのである。
1930年には、郡山合同銀行も経営に行き詰まり破綻をみることになった。さらに二本松銀行も休業に追い込まれ、安田銀行支店と郡山商業銀行の2つが残るのみとなってしまった。
郡山市会および商工会議所は、安定した経営を続けていた秋田銀行に郡山への支店設置を求めた。橋本と同じ民政党系の銀行であり、こうした政党人脈を利用しての誘致でもあった。秋田銀行は求めに応じ、1931年に郡山支店を開設した。