3 恐慌下の財政

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 郡山市会で議決された1929(昭和4)年度の予算総額は71万7,435円であった。この予算案の説明には、人口増加にともなう教育費の増加や下水道の改良などやむを得ないものを除き、緊縮方針で編成したと書かれている。

 翌30年度の予算案は、61万9,723円と、さらなる緊縮となり、6年度予算案は59万4,452円と、いっそうの削減方針で編成された。

 1930年の国勢調査によれば、郡山の人口は5万1,367人となり、福島市・若松市を超えて県下1位となった。人口が増加すれば市の歳出も増加することとなり、とりわけ就学児童の増加にともなう学校増設などの教育費が、市財政に重くのしかかった。

 しかし一方で、不況に苦しむ市民に負担増を求めることはできなかった。1戸当たりの市民税の平均額は、4年度は25円74銭、5年度は2円08銭減の23円66銭、6年度はさらに2円20銭減の21円46銭と、減額方向に動いている。

 7年度予算案は、緊縮財政も限界を迎えて前年比で1万27円の増額となったが、市民税の平均額はさらに減額して21円としている。この年も小学校の増築費が必要となっていたが、それは起債(借金)でまかなうこととされた。

 1935年において市民税の平均額以上を納めたのは、全戸数の18%を割っていた。このことは、少数の大地主や資産家が郡山市の財政を支えていたことを示しており、それだけ市民の所得に大きな格差があったことを意味している。

 同年の郡山市の世帯数は1万208世帯であるが、そのうち712世帯が無職として数えられており、恐慌下の厳しい状況がうかがわれる。商工業都市として成長途中にあった郡山は、恐慌下において、難しいかじ取りを迫られていたのである。

(徳竹剛)

(参考文献)橘輝政『郡山財界秘史』

白鳥圭志『両大戦期における銀行合同政策の展開』

郡山市編『郡山市史』

田中正能編『写真集明治大正昭和郡山』