1931(昭和6)年9月18日夜、中国東北部(満州)奉天(ほうてん)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で満州鉄道本線が爆破され、在満州の日本関東軍は、これを中国軍によるものとして、ただちに軍事行動を開始した。これが満州事変で、いわゆる15年戦争の始まりであった(関東軍の謀略(ぼうりゃく)だったことが戦後明らかになる)。郡山地方出身の兵士の多くが入隊した若松歩兵29連隊は、事変開始前の4月に奉天に派遣されており、鉄道爆破と同時に奉天城を占領、以後各地の主要都市を攻略し、在満州日本軍の中で最も重要な役割を果たした。
郡山から満州事変に従軍した兵士は、計98人であるが、この内歩兵29連隊所属で、満州駐剳(ちゅうさつ)派遣部隊に属して従軍した郡山出身の現役兵は26人であった(各村郷土誌)。当時は徴兵制が布(し)かれ、兵士の数は郡山市(旧市)だけでもかなりの数に上り、事変開始前の1930(昭和5)年には現役兵が125人(1926年に比し50%増)、予備役(えき)・後備役・補充兵を合せて1,796人(同年比12%増)となった。27(昭和2)年2月兵役法が改められ、以後、郡山の徴兵検査は次のように実施された。毎年4月以降、郡山第三小学校で壮丁者(20歳)全員に対する検査予習・学力検査を行なって検丁人員を確認し、その後市公会堂において徴兵検査を実施する。そこで体格等位(甲乙)と徴兵免除に分け(等位はのち、甲・乙・丙・丁・戊の5種となる)、さらに8月頃福島連隊区において申種乙種から抽選によって合格者を決定し、それを本年度入隊現役兵と補充兵(第1・第2)にふり分けた(第1表参照)。郡山市(旧市)の現役兵は28(昭和3)年の42人から、日中戦争開始の37(昭和12)年には95人に増加した(市事務報告書)。
項目 | 壮丁人員 | 検丁人員 | 選定人員 (合格者) |
本年度入営・補充兵 | 帰休 | ||
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年次 | 現役兵 | 第一補 | 第二補 | 除隊 | |||
昭和3 |
人 230 |
人 195 |
人 119 |
人 42 |
人 66 |
人 ― |
人 44 |
4 | 283 | 283 | 135 | 50 | 56 | 53 | 43 |
5 | 291 | 232 | 130 | 51 | 74 | 44 | 46 |
6 | 240 | 240 | 131 | 49 | 76 | 54 | 36 |
7 | 254 | 254 | 143 | 51 | 81 | 71 | 49 |
8 | 357 | 357 | 186 | 64 | 93 | 24 | 48 |
9 | 333 | 333 | 164 | 57 | 81 | ― | 62 |
10 | 335 | 335 | 173 | 84 | 82 | ― | 69 |
11 | 353 | 353 | 165 | 70 | 93 | ― | 60 |
「郡山市事務報告書」等(『郡山市史5』P411第74表による)
満州全域を制圧した日本は、旧清朝の廃帝(溥儀(ふぎ))をかついで1932年満州国を建国させ、実質上の植民地とした。国際連盟は日本軍の行動を侵略と断定し、日本軍の撤退を求める勧告案を42対1で可決し、日本は連盟を脱退する。他方国内では同年、五・一五事件で犬養毅首相が射殺され、戦前の政党政治は終りを告げ、軍部によるファシズム体制が強化される。郡山地方でも戦争協力体制=銃後体制強化のため、軍事講演会、出征兵士の武運長久祈願と歓送会、凱旋(がいせん)兵士の歓迎会及び座談会、戦死者の追悼(ついとう)式、出征軍人遺家族慰問(いもん)の奉仕作業等々の行事が数多く催された。在郷軍人会分会、婦人団体、郡山市軍事後援会、市青少年団が各地で大きな役割を果たした。
満州事変後、労農社会運動に対する統制・弾圧はますます激しくなり、労働組合・農民組合・無産政党の右傾化が進んだ。福島県内でも1930(昭和5)年6月、32(昭和7)年10月、33(昭和8)年3月と3回の大弾圧(福島共産党事件)により県内の左翼的社会運動は壊滅した。第三次共産党事件の際には、全県で72人の活動家が検挙されたが、この内郡山市内では小田島森良・箱崎満寿夫ら5人が検挙された。この5人は起訴猶予(きそゆうよ)となり釈放されるが、小田島・箱崎らは警察の尾行・監視を受けつつも、郡山の失業青年・インテリ・学生浪人・文学青年婦人らと、文学やダンス教習などを通じて交流を広げ、次第に文学サークルが組織されていった。このグループが、34(昭和9)年4月雑誌『郡山文学』を創刊した。ガリ版刷り40ページほどで、佐藤一郎(ペンネーム馬場八郎)が編集し、山之井喜四郎(ペンネーム山内義雄)が印刷を担当した。最初の同人は、右の小田島・箱崎・佐藤・山之井と箱崎伊勢雄(ペンネーム下村黎人)・吉田一蔵(ペンネーム吉田天史)らで、のち横光利三・小泉トリ・橋本春美・丘十詩夫(おかとしお)・国分清吉・斎藤国造ほか多数の文学青年が加わり、小説・詩・短歌・俳句・評論などバラエティに富む作品を発表した。やがて鈴木宗次郎(「岩代毎日新聞」)・湯浅大太郎・長野栄一郎(旭旅館)らの有力な後援者も現れ、35(昭和10)年4月発刊の第9集からは活版印刷となり、各号とも市内の有名書店の店頭に並び、大半は売り切れたという。時には西条八十を招いて座談会を持ったり、第9集には宮本百合子が寄稿したりで、多彩な活動ぶりであった。『郡山文学』は第11号(1936年10月号)まで続くが、中心メンバーの転居・入隊等により停刊する。
1937(昭和12)年7月、盧溝橋(ろこうきょう)事件を機に日中全面戦争が始まり、日本は準戦時体制となり、翌38(昭和13)年3月国家総動員法制定、40年10月大政翼賛会が発足し、軍部ファシズム体制は完成した。満州事変から45(昭和20)年8月までの15年間に、郡山市域(現郡山市)から徴兵され従軍した兵士は1万5,400人、この内戦死戦病死者は5,600人に及んだ(『郡山市史5』474ページ)。
(引用・参考文献〕
『郡山市史5』 391~406ページ、407~476ページ
糠澤章雄『民主主義のいしずえ―県民衆運動史(戦前)―』188~218ページ
『図説本宮の歴史』230~1ページ、236~7ページ
『図説郡山・田村の歴史』(郷土出版社)220ページ
箱崎満寿夫『郡山社会主義運動史』