1931(昭和6)年9月、日本は満州事変を起こし、1933年には国際連盟を脱退して、アジア・太平洋戦争への道を突き進むことになった。1937(昭和12)年7月には日中戦争が始まり、中国進出が拡大すると、翌年には国家総動員法を制定し、国をあげての戦争協力体制をとった。1940(昭和15)年には大政翼賛会(たいせいよくさんかい)が発足し、大政翼賛会郡山支部が結成されると、町内会や隣組は大政翼賛会の下部組織に組み込まれ、戦争を遂行するために協力する組織となっていった。
1941(昭和16)年12月8日に、太平洋戦争が勃発、長期化した戦争は物資の不足を招き、米をはじめ味噌・醤油・砂糖・塩等の物資は配給制となり、衣料品や木炭等は切符制となった。郡山市内には「贅沢(ぜいたく)は敵だ」「買いだめは敵だ」等のポスターが街角に張り出された。市民の外出服装は、女性はモンペ、男性はカーキ色のスフの国民服、防空頭巾(ずきん)・地下足袋(たび)・巻脚絆(まききゃはん)の着用となった。
1943(昭和18)年のミッドウェー、ソロモン海戦に敗北したころより、日本は敗戦の色を濃くしていった。そのようななか、1944年1月に郡山市は軍都(ぐんと)の指定を受けた。軍都には青森県の大湊町や茨城県の土浦市なども候補地にあがった。郡山市が指定を受けたのは、すでに海軍・陸軍の部隊が設置されていたからである。1940(昭和15)年に開成社は用地(希望ケ丘地域)32町歩を軍に差し出し、1941年8月には東部66部隊が富田地区に設置された。66部隊は1943(昭和18)年に若松市に移り、その後に東部111部隊が駐留した。
さらに、郡山市は国に海軍航空隊の誘致運動をしていた。海軍省は福島市よりも郡山市が適地との結論を出した。それにより、1942年から1944年にかけて、徳定に郡山第1海軍航空隊、金屋に第2海軍航空隊、大槻に第3海軍航空隊が設置された。この軍事施設を結ぶため、安積橋(逢瀬川に架かる旧国道の橋)南側から上亀田を結ぶ道路と、金山橋(阿武隈川に架かる49号線の橋)から開成山を結ぶ道路が造られた。金山橋から開成山の道路は国道49号線となり、安積橋南側から上亀田の道路は軍用道路(うねめ通り)として現在でも使われている。
太平洋戦争が始まると、郡山市内の民間の工場も軍需物資を生産するようになった。日東紡績富久山工場や東北振興アルミニューム工場・保土谷化学・松葉製糸・三菱電気郡山工場等も軍需産業へと転換した。労働者は戦争へ徴兵されていたため労働者は不足していた。そのため、学生が軍需工場に動員された。郡山市内の学校では、安積中学校(現安積高等学校)は保土谷化学や東洋電機へ、郡山商業学校(現郡山商業高等学校)は保土谷化学や仙台鉄道郡山工場へ、安積高等女学校(現黎明高等学校)は保土谷化学や日東紡績・日本化学へ、郡山淑徳女学校(現郡山東高等学校)は三菱電機・仙台鉄道郡山工場へ、桃見台国民学校高等科は保土谷化学・浜津鉄工場へ動員され、小学校高等科の生徒まで働いた。さらに、郡山には米沢の高等工業専門学校や、白河高等女学校(現白河旭高等学校)の生徒など、他県・他市の生徒も動員させられた。
戦争が熾烈(しれつ)になってくると、政府は学童疎開(そかい)を命じた。1944(昭和19)年8月には、熱海町に東京日暮里の小学校の3年から6年の生徒約800人が集団疎開してきた。生徒は、熱海町の栄楽館・一力・信夫屋などに分宿した。疎開した生徒は午後から学校で授業を受けた。午前は地元の生徒が授業した。疎開した生徒の授業には引率してきた教師があたった。
1944年12月24日には空襲警戒警報が発令され、市民は防空演習や防空壕(ぼうくうごう)造りにあたった。郡山市内の公共用防空壕は344ヵ所に造られ、その他、個人の防空壕や一時退避(たいひ)の壕が数多く掘られた。
アメリカ空軍による日本への爆撃は1944(昭和19)年から始まり、翌1945年に入ると、東京をはじめ主要都市で連日のように爆撃を受けた。郡山では4月・7月・8月に3回爆撃されている。4月12日は、保土谷化学と郡山駅、日東紡績富久山工場が、アメリカ空軍のB29の爆撃を受け460人が爆死した。この内には、勤労動員で保土谷化学で働いていた白河高等女学校の生徒14名、安積中学校5名、郡山商業学校6名、安積高等女学校1名の生徒26名が犠牲となった。
7月29日には1トン爆弾が落とされた。後にアメリカの資料により1トン爆弾ではなく、長崎・広島に落とした原子爆弾の模擬訓練であったことがわかった。模擬爆弾は、郡山駅と日東紡績第3工場近くに投下され39人が死亡した。
8月9日は、福島県沖に進出してきた大機動部隊からの艦載機(かんさいき)によるもので、攻撃の対象は郡山海軍航空隊で、飛行機をはじめ格納庫や倉庫・兵舎が破壊され、金屋村や御舘村の民家20戸も焼失した。
長崎・広島に原子爆弾を投下された日本は、1945年8月15日に無条件降伏した。
(参考文献)
『郡山市史』5近代(下)・6現代