78 郡山の空襲そして終戦

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 1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争において、当初日本は優位に戦争を進めたが、1944(昭和19)年には、アメリカ軍による本土空襲を受けるようになった。日本が戦争に勝利するためには、それらを撃退し排除する軍事力を持つ必要があったのだが、そこで考えられたのが、「軍事施設より軍事資源を補給する都市(軍都)」を保持する事であった。郡山には保土谷軍事工場をはじめ多くの軍事工場が立地していたので、1944(昭和19)年に軍都に指定された。

 しかし、指定より前の1942(昭和17)年から、生産労働者の徴兵による軍事力投入が急増していた。その影響から、生産労働者となるべき人材の確保が深刻な問題となっており、この生産労働力不足を補うため、学生の勤労動員が本格化した。この時組織された労務動員組織は勤労報国隊、女子挺身隊、学徒勤労動員隊等である。郡山市は軍都の指定もあり、軍需工場も多かったので市内の学校から多くの学徒が動員された。その状況は次のとおりである。

安積中学校(現在の安積高校)

→保土谷化学・東洋電機(横浜)ほか五ヵ所

郡山商業学校(現在の郡山商業高校)

→保土谷化学・仙鉄郡山工場

安積高等女学校(現在の安積黎明高校)

→保土谷化学・日東紡績・日本化学

郡山淑徳女学校(現在の郡山東高校)

→三菱電機・仙鉄郡山工場

桃見台国民学校(現在の桃見台小学校)高等科

→保土谷化学・浜津鉄工場

 このほか郡山には、山形県米沢市の高等工業専門学校の生徒など他県からの動員学徒もいた。

 1944(昭和19)年にアメリカ軍による日本空襲が始まると、同年12月24日には郡山に警戒警報が発令されている。こうした情勢下で市民は防空演習や防空壕(ぼうくうごう)造りに追われた。郡山市内の公共用防空壕は344個が造られ、そのほか個人の防空壕や一時退避用壕などが数多く作られた。